八木好美
八木 好美(やぎ よしみ、1914年(大正3年)3月24日 - 1996年(平成8年)5月17日)は、兵庫県揖保郡越部村觜崎(現たつの市新宮町觜崎)出身の詩人[1]。 経歴1914年(大正3年)、警察官であった父肔哉の長男として、越部村觜崎に生まれる[1]。本名美衛[2]。尋常小学校の頃、父の仕事のため一時姫路に住むが、後に帰郷し兵庫県立龍野中学校に入学[1]。龍野中学校時代、作文を先生に褒められた事が文学を志すきっかけとなった[1]。この頃から『愛誦』『若草』『山脈』『昭和詩人』等に詩を投稿するようになり、『山陰詩人』『詩創元』『ばく』等の同人に参加の他、自らも『火虹』『深苑[脚注 1]』等の同人誌を主宰した[3][4][5][1][2]。生涯の友である大塚徹、植原繁市らと出会ったのもこの頃である[1]。1933年(昭和8年)より教師となり、揖保郡・佐用郡・龍野市の小中学校を歴任した[1]。 1935年(昭和10年)、21歳の時に処女詩集『花の雫』を出版[1]。その他児童映画のシナリオ執筆、地域の学校の校歌作詞、プロ野球「ライオン軍」応援歌の作詞(作曲は山田耕筰)など、多方面に才能を発揮した[1]。戦時中は軍に入隊し一時活動を中断していたが、戦後活動を再開し、「神戸復興まつりの歌」や「ねんねん揺籠」の作詞をはじめとして、「新涛」「朗詠詩」等の雑誌に活発に作品を発表した[1]。 年譜
主な作品
著作
脚注
出典
参考文献
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