兒玉光雄兒玉 光雄(こだま みつお、1932年9月24日 - 2020年10月28日)は、広島県出身の被爆者。1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下で至近距離で被爆し、放射線の影響により生涯にわたって闘病を続けるとともに、被爆体験を伝えるべく積極的に活動した。 概要兒玉は旧制中学校1年生だった12歳の時に、爆心地から876メートルの校舎内で被爆した[注 1][1][2]。即死は免れたものの致死量の半分以上に相当する4グレイを浴びたため[3][4]放射線障害により一時は生死の境をさまよい、その後回復して88歳まで生きたが、晩年はがんが相次いで見つかった。 76歳の時に研究機関に血液を提供[5]したことで染色体の異常が判明[6]し、それ以来「私のような人間を二度とこの地球上で創らせてはいけない」と考え[7]、被爆者として「核被曝の怖さ」のメッセージを積極的に発信すべきと考えて、あらゆる機会と媒体を通じて訴え、記録も始めた。修学旅行生や医学部の学生[8]、海外の人[注 2][9]などに向けて、亡くなる数か月前まで証言を続けた。生前は「原爆の非人道性を知りたければ、私の染色体を見りゃあええ」「放射線は、こんなにむごいものだ」[10]「核と人類は共存し得ない」[11]と訴え続けた。著書には『被爆者・ヒロシマからのメッセージ』(2014年)及びその英訳書『HIBAKUSHA』がある。 生前は兒玉の豊富で独特な被爆体験により、広島市から伝承者養成の講師に任命され[2][注 3]、広島大学からはオーラルヒストリー[12][注 4]や講義[注 5]の要請があり、また8月6日の「広島原爆記念日」には日本放送協会から取材を受けてドキュメンタリー番組も作成された[13]。米国放射線影響学会で報告する[9]など、研究分野においてもグローバルに協力を行っていた[14][15][注 6][注 7][注 8]。 また、2004年(平成16年)からは広島平和記念資料館主催により、被爆者が証言活動を行う際に言葉では伝わらない場面や状況を絵によって伝える「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトが行われており[16]、2011年から参加した兒玉の証言を元に広島市立基町高等学校の「創造表現コース」の生徒が5枚の絵を完成させた。広島大学医学部医学資料館で「資料から見えてくる兒玉光雄さん」が2023年3月10日~5月26日まで開催された。[17] 生い立ち1932年(昭和7年)9月24日広島市荒神町に、逓信局の電話技手であった父と、和服の技術を教える教室を開いていた母の長男として誕生[18]。2歳下の妹がいた。 1939年(昭和14年)4月、比治山尋常小学校に入学。1945年(昭和20年)4月、広島第一中学校(以下、広島一中)に進学。6月、空襲を避け兒玉家は市内から戸坂村へ移り[19]、父の友人宅の離れで疎開生活を始めた。 被爆証言被爆当日の状況兒玉は、疎開していた旧戸坂村から汽車で広島駅へ行き、広島一中に通学していた。1945年8月6日も戸坂村在住の同級生とともに朝7時半ごろに登校した。 2年生以上は学徒動員のため、近くの軍需工場へ働きに出ていた。登校したのは兒玉ら1年生307人のみだった。その日は防火帯を作る建物疎開作業に当たることになっており、1組、3組、5組の奇数クラスが屋外で作業をしていた。残りの偶数クラスは教室で自習をして作業を待機するように命じられた[20]。兒玉は待機組であった。 教員がいない教室は雑談する生徒で賑やかであった。しばらくするとB-29が飛来する音がした。当時、降伏を促すビラなどが上空から撒かれていたため、ビラを拾うため兒玉は同級生とともに外へ出ようと、窓際の自席から反対側の廊下へ向かおうとした。その途中で、学校への持ち込みが禁止されている『少年倶楽部』という雑誌を見ていたグループが目に入り[21]、足を止めた。このグループに割り込もうとしたその時、「黄金の火柱」[22]が見え、気を失った。この一瞬が生死を分けた。 被爆直後の状況307人の同級生のうち288人が被爆直後に死亡。屋外で作業していた3つのクラスのおよそ150人は、全員が死亡した。 どれくらいの時間が経っていたのかわからないが、激しい咳と嘔吐に襲われ意識を取り戻した。屋根や梁などの下敷きになっていたが、木材を割りながら何とか外に這い出ることができた。晴天だった空は夜のように暗く、瓦礫の下から「助けてくれ」という声が上がっていた。数人を助け出したものの、火災が発生し炎と煙でその場にいることは困難だった。自力で脱出した同級生の中には、兒玉と同じ窓際の席だったため、ガラスを浴びて全身裂傷を負っている者もいた。下敷きになっている同級生たちは、覚悟を決めたように「君が代」や学校の愛唱歌を歌い始めた。兒玉は「すまん。みんな…すまん」[23][注 9]と謝りながら、その場を離れた。同級生の低い歌声は、兒玉の耳に終生残り続けることになった。 その後、火災を避けながら広島市電が走る広い道路を目指した。道に横たわる死体や、やけどを負い、わが子を抱きながら息絶えようとする母親、眼球が飛び出た青年など、無数の重傷者を目にした。兒玉は塀の下敷きとなった中年女性に足を掴まれ[24]、瞬間的に振りほどいて逃げてしまった。離れていく兒玉を見つめる女性の視線は心の傷となって生涯残ることになった。 兒玉は戸坂村の疎開先に帰ろうと、放射線障害と思われる嘔吐を繰り返しながら駅を目指したが、この頃には真夏の太陽が照り付ける状態になっており、丹那駅の近くで意識を失った。気が付いた時には、見知らぬ家に寝かされていた[25]。広島一中に通う3年生の甥をもつ女性が、一中の制服を着ていた兒玉を保護したのだった。この女性の親切がなければ、道端で死んでいただろう。 徒歩と汽車で戸坂村に戻った時には深夜になっていた。戸坂駅の空は広島を焼く炎で赤く見えたという。兒玉は、涙を流しながら残してきた同級生に「すまん」と手を合わせた[26]。夜には戸坂村へと戻ったが、放射線障害に倒れた。 急性放射線障害被爆から4日後、広島一中の様子が気になっていた兒玉は、親戚とともに広島へ向かった。しかし、広島駅に着くと気分が悪くなり、嘔吐を繰り返した。その後、頭髪が抜け、歯茎や目、鼻、耳の穴から出血、血便、血尿も出るようになった[27]。小豆大の斑点が体中に広がり、40度を超える高熱が出た。大量の放射線を浴びた後に起こる急性障害であった。 兒玉は危篤に陥り、医師から「棺桶を用意した方が良い」[28]と言われたが、母はドクダミの葉を煎じて薬をつくり、徹夜の看病を続けた。 ようやく危険な状況を脱したのは9月中旬であった[29]。しかしその後も頭髪は伸びず、胃腸の不調に悩まされることになった。秋ごろに、小学校の校舎を借りて授業が再開され、兒玉は復学したが、被爆の影響で頭髪が抜け、下痢と食欲不振に悩まされた。 広島一中に在学中、1947年(昭和22年)、アメリカが設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)のジープで学校に来て、兒玉を連行し、様々な検査を受けさせた[30]。その後も麻酔なしで骨髄を採取され、その痛みと憤りから、ジープが迎えに来ても隠れて二度とABCCには協力しなかった[31]。 安定期の状況
闘病生活異変が起き始めたのは、被爆から48年が経った60歳の夏だった。大腸がんが見つかり、30から40センチ切除。 63歳の時、胃壁にできたポリープの先端ががん化。 65歳の時、右頬の腫瘍が「基底細胞上皮腫」と診断。この皮膚がんが、背中や頭部になど全身で見つかり、医師が「放射線関連の技師などをされていたんですか」[38]と尋ねるほどだった。 70歳のときには甲状腺癌の手術を受け、甲状腺機能低下を防ぐ薬を一生飲み続けることになった。 兒玉のがんは「転移」ではなく、それぞれの器官の細胞ががん化したものだった。至近距離で放射線を全身に浴びたので、体中の細胞が損傷を受けたために「重複がん」になった。 76歳の時、兒玉は放射線影響研究所で、染色体の検査を受けた。100個の細胞のうち102箇所で「転座」[39][注 11]と呼ばれる異常が見られた。転座は加齢などによっても起こるが、多くても2~3個で、兒玉の異常な数は研究者も驚くほどであった。「回復の見込みはない」[40]と告げられた兒玉は、ショックを受けながらも「私のような人間を二度とこの地球上で創らせてはいけない」という強い決意から、「被ばくの怖さの実相を、生かされている限りは世の中に伝え続けていきたい」[41]と確信した。 84歳の時、腎臓にがんが見つかり、検査をしたところ骨髄異形成症候群(MDS)と診断される[36]。被爆の影響により骨髄で正常な血液をつくることができなくなっていたので、手術を断念した。 このように兒玉ががんと診断された回数は22度に及んだ[42]。 2016年(平成28年)、ハワイで催された第62回米国放射線影響学会(RRS)で講演[15]。 2020年(令和2年)7月26日、広島一中を前身とする広島国泰寺高等学校での慰霊祭に参加し、若くして亡くなった同級生たちを慰霊する[43]。7月30日に広島大学医学部の学生に向けた講義を収録し[44]、これが最後の証言となった。10月28日、左腎細胞がんのため死去[2]。享年88。 兒玉に影響を与えた人物
参考文献
テレビ番組脚注注釈
出典
外部リンク |