元鸞元 鸞(げん らん、468年 - 505年)は、北魏の皇族。城陽懐王。字は宣明。 経歴城陽康王拓跋長寿の次男として生まれた。はじめ叔父の章武敬王拓跋太洛の後嗣となったが、兄の拓跋多侯が死去すると、実家に帰って父の城陽王の爵位を嗣いだ。身長は八尺、腰帯は十囲あり、武芸で知られた。まもなく北都大将となった。孝文帝のとき、外都大官に任じられ、持節・都督河西諸軍事・征西大将軍・領護西戎校尉・涼州鎮都大将として出向した。涼州鎮が州に改められると、元鸞は余官はもとのまま涼州刺史・姑臧鎮都大将となった。 後に平城に呼び戻された。493年(太和17年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、元鸞は鎮軍将軍を兼ねた。北魏が洛陽に遷都し、孝文帝が鄴に行幸すると、元鸞は洛陽の留守をつとめた。495年(太和19年)、使持節・征南大将軍・都督豫荊郢三州河内山陽東郡諸軍事に任じられ、安南将軍の盧淵や李佐とともに南朝斉の赭陽を攻撃したが、落とすことができず、敗退して帰った。孝文帝が瑕丘に行幸すると、元鸞は敗戦の罪に対する処罰を願い出て行宮におもむいた。孝文帝は元鸞に引見して叱責すると、元鸞を定襄県王に降封した。496年(太和20年)、元鸞は留守の功績により、旧封にもどされた。冠軍将軍・河内郡太守に任じられた。後に并州刺史に転じた。宣武帝の初年、平東将軍・青州刺史に任じられた。後に安北将軍・定州刺史に転じた。 元鸞は仏教を好み、五戒を守り、飲酒や肉食をせず、長年にわたって潔斎を積んでいた。仏寺を建てるために、民衆を率いて土木の労をともにした。信心のために公私にわたって金銭を費やし、労役を動員したので、民衆の患いになった。宣武帝はこのことを聞くと、元鸞の俸禄を奪って罰した。 505年(正始2年)3月25日[1]に死去した。享年は38。鎮北将軍・冀州刺史の位を追贈された。諡は懐王といった。 妻子妻
子
女
伝記資料脚注
|