佐喜眞興英佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。 1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された[1]。 家族16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。同年、永原マツヨと結婚する。マツヨは学校法人永原学園、佐賀短期大学などの創立者となった。 現在、宜野湾市で私立美術館(佐喜眞美術館)を運営する佐喜眞道夫は興英の孫にあたる。興英のひとり娘、貞子の次男。 著書
参考文献佐喜真興英著、比嘉政夫・我部政男編『女人政治考・霊の島々〈佐喜眞興英全集〉 』(新泉社、1982年) 脚注
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