佐伯伊多智
佐伯 伊多智(さえき の いたじ/いたち)は、奈良時代の貴族。名は伊多治、伊太智、伊多知、伊達とも記される。官位は従四位上・中衛中将。勲等は勲二等。 経歴天平宝字8年(764年)衛門少尉の官職にあったが、藤原仲麻呂の乱が発生すると孝謙上皇方として活動する。9月11日に恵美押勝軍が宇治から近江国に逃亡しようとしたため、山城守・日下部子麻呂と共に田原道(東山道の一部)を先回りして近江国に出ると、勢多橋を焼き落としその気勢を削ぐ。慌てた押勝軍が高島郡に向かうのを見て、伊多智らは馬を駆って先に越前国に入り、押勝の息子である越前守・恵美辛加知を斬殺した。翌9月12日には伊多智らは越前国に入ろうと愛発関に至った押勝軍と交戦、伊多智らが放った矢により押勝軍の数名を殺傷するなど、押勝軍の越前入国を阻止する[1]。この戦功によって、伊多智は直ちに従五位下に叙せられている。 10月に逆徒追討の功労者に対する叙位が行われ、伊多智は従五位上に叙せられる。さらに従四位下まで昇進すると共に、翌天平神護元年(765年)勲二等の叙勲を受け、天平神護2年(766年)には功田20町を与えられた。神護景雲2年(768年)従四位上・左衛士督叙任される。 光仁朝の宝亀2年(771年)それまでの中衛中将に下野守を兼ねている。 官歴『続日本紀』による。
脚注
参考文献 |