佐久間長敬佐久間 長敬(さくま おさひろ、天保10年5月25日(1839年7月5日)[1] - 大正12年(1923年)1月4日)は、江戸幕府の与力、東京裁判所職員。通称、弥太吉・鍵三郎・健三郎。 経歴天保10年(1839年)、南町奉行所に与力として代々務める佐久間家の、健三郎長興の長男として江戸八丁堀に生まれる。弟に原胤昭がいる。 嘉永5年(1852年)9月5日、分家独立した父・長興に代わって祖父の彦太夫の家督を継ぐ。御番諸役無足見習を命ぜられ、吟味方与力を務めた後、町奉行支配調役兼与力に就任、150俵20人扶持となる[2]。 一時期、神奈川奉行所に赴任する。 町奉行所が廃止された明治維新後は、新政府が設置した市政裁判所に勤務する。明治5年(1872年)に司法権少判事、足柄裁判所長を歴任し、東京裁判所に奉職。明治6年(1873年)12月28日、病気を理由に辞職(実際には征韓論不採用に対する抗議だったとされる)。その後、代言人や銀行顧問、石油鉱山業など様々な事業に携わった[3]。 大正12年(1923年)没。享年85[4]。東京都台東区寿町の永見寺に葬られる。 著作
脚注
参考文献
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