住友奔別炭鉱(すみともぽんべつたんこう)は、北海道三笠市奔別町260にかつてあった炭坑。
1900年(明治33年)に奈良炭鉱として開鉱、1928年(昭和3年)に住友坂炭鉱に売却された後、1930年(昭和5年)に住友炭鉱に経営移譲。1971年(昭和46年)まで操業され、累計2650万トンの石炭が採掘された[1]。
住友奔別炭鉱立坑は深部の総合開発のため、ドイツGHH社から技術導入を行い三菱造船が製作した立坑で、1960年(昭和35年)から操業を開始した[2]。立坑櫓の高さは約51m、深さは約735m、内径は約6mで、当時は東洋一の立坑と呼ばれた[1]。捲上深度650m、掘削深度735m[2]。スキップ・ケージ巻揚げ方式で、鉱員、石炭、ズリ、機械などを同時に運搬できる国内初の最新システムが採用され、「100年採炭できる」と謳われたが、立坑密閉作業中に死傷者を出す爆発事故が発生。1971年(昭和46年)10月25日に閉山した[3][4]。
沿革
- 1880年(明治13年) - 開拓使御用掛が、奔別の炭層を発見し測量。
- 1900年(明治33年) - 川口・岩井沢の二坑が開抗。
- 1911年(明治44年) - 奔別炭砿株式会社を設立。取締役社長は佐々木慎思朗。
- 1912年(大正元年) - 山下鉱業株式会社の経営に移転。
- 1924年(大正13年) - 北海道鉱業株式会社を組織し事業を継続。
- 1928年(昭和3年) - 北海道鉱業は270万程度で住友に譲り、住友炭砿株式会社となる。
- 1946年(昭和21年) - 井華鉱業株式会社に変更。
- 1952年(昭和27年) - 社名を住友石炭鉱業株式会社奔別鉱砿業所とする。
- 1953年(昭和28年) - 厚生年金還元融資制度が設けられる。
- 1956年(昭和31年) - 奔別弥生両砿の統合及び深部開発のため立坑開さくに着手。
- 1960年(昭和35年) - 坑内外諸施設の諸工事を進め6月竣工。立坑は8月に操業開始。10月奔別弥生砿統合。
- 1966年(昭和41年) - 11月1日、午前2時45分ころガスによる事故が発生。作業中の職員3名、鉱員13名が死亡。鉱員4名が重軽傷を負う。
- 1971年(昭和46年)
- 住友本社より閉山が通告される。
- 10月10日ガス突出事故、出炭量の維持が困難となり全面閉山が決まる。
- 10月26日、第5回奔別労働組合全日大会で閉山が承認される(25日付で閉山)。
[出典[5]]
交通アクセス
- JR函館本線「岩見沢駅」下車。中央バス「岩見沢ターミナル」(三笠線)から「幾春別4丁目」下車、徒歩約10分[4]。
- 道央自動車道「三笠インターチェンジ」下車。道道116号岩見沢三笠線を三笠・桂沢方面へ(三笠インターチェンジから約20分)[4]。
その他
- 敷地外から外観のみ見学・撮影可能。敷地内の見学は所有者等の許可が必要[4]。
- 日本を代表する現代美術家・川俣正の出身地であり、現地で美術プロジェクトを立ち上げている[6]。
- 1989年には本炭鉱跡地を用い全天候ドーム型の競艇場建設案が検討されていたが[7]、1991年に計画中止となっている[8]。
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旧奔別炭鉱立坑櫓
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住友奔別炭鉱 選炭施設
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住友奔別炭鉱 炭住宅
脚注