伊達邦成
伊達 邦成(だて くにしげ)は、江戸時代末期から明治時代にかけての仙台藩一門・亘理伊達家第14代当主。 戊辰戦争で新政府軍に敗れ、99%以上の知行を取り上げられたため、家臣団と共に北海道開拓に活路を求めた。開拓の功により、勲四等を叙勲され、男爵に叙せられている。 鹿島国足神社祭主。のちにキリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)[1]となったが、伊達神社および開拓神社の祭神ともなっている。 人物仙台藩領において、岩出山伊達家当主・伊達義監の次男として生まれ、亘理伊達家第13代・伊達邦実の婿養子となった。伊達宗家は当初、邦成を一関藩田村家の養子にしようとしたが、邦実の未亡人である保子が反対して亘理家に入る事になり、「亘理伊達家の婿泥棒」と言われた。 亘理領主となり、戊辰戦争では海道筋に出兵した。藩主・伊達慶邦の命により和平交渉を担い、講和への道筋をつくった。 仙台藩降伏後、知行を23,853石から58石(従前の0.24%)へと減らされたため、数百名もの家臣団を養うことが不可能になり、家老・常盤新九郎(田村顕允)の意見により明治3年(1870年)から数次にわたって家臣らを率い、家族と共に北海道に移住、胆振国有珠郡(現在の伊達市)を開拓した。 明治9年(1876年)4月8日、国足神社建立に伴い、祭主として遷座祭を執行した[2]。一方、明治19年(1886年)に押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となった[1]。明治25年(1892年)、開拓の功により、勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。 墓地は伊達市霊園にある。昭和10年(1935年)、有珠郡開拓の先覚者であり偉勲者であるとして、田村顕允と共に伊達神社に祀られた[2]。 栄典系譜関連作品小説
脚注参考文献
外部リンク
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