伊達 宗遠(だて むねとお)は、南北朝時代の武将。官位は従五位下・弾正少弼。伊達氏8代当主。
生涯
天授6年/康暦2年(1380年)頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。
天授7年/康暦3年(1381年)には大崎氏と戦い信夫郡・刈田郡・伊具郡・柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。
この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。
宗遠の子・宗行は大條氏(大枝)[1]の祖となった。
系譜
系譜の疑問点
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。
行宗-宗遠の場合、1348年の『奥州管領吉良貞家の書状』の中に「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官伊達修理亮宗政」とみえ、また宗遠の初見は1342年の『五辻顕尚の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている[2]。
1377年に伊達宗政(修理亮)が留守持家と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。
脚注
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平安末〜鎌倉時代 | |
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南北朝〜室町時代 | |
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江戸時代(仙台藩主) | |
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明治時代以降 | |
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