伊賀朝光
伊賀 朝光(いが ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人・吏僚。伊賀氏の祖。 略歴藤原北家藤原秀郷流の藤原光郷の子として誕生。蔵人所に代々使えた下級官人の出身だった。母は源頼朝の政所別当源邦業の娘である。 朝光は頼朝に従い、文治5年(1189年)には奥州合戦に参加。建久元年(1190年)11月の頼朝の上洛にも供奉している。正治年間(1199年-1201年)に左衛門少尉に任じられた。建仁3年(1203年)の比企能員の変では北条政子の命で比企氏攻撃軍に加わる。 娘・伊賀の方を後室に迎えた北条義時が鎌倉幕府の2代執権となった事から、朝光やその子らは義時の外戚として活躍した。建永元年(1206年)に検非違使となり、翌建永2年(1207年)に叙爵。承元4年(1210年)3月に伊賀守に任じられ、それ以降は伊賀氏を称した[1]。建暦2年(1212年)12月、従五位上に叙す。建保元年(1213年)の和田義盛の乱では恩賞として常陸国佐都を賜っている。建保3年(1215年)9月14日に朝光が死去し、翌日に舅である二階堂行政の家の後山に埋葬された際には、義時も参列している。 建保5年(1217年)2月10日には未亡人となった妻(行政の娘)が京で死去している。長男・光季は承久3年(1221年)の承久の乱で京方の襲撃を受けて自害し、三男・光資は貞応3年(1224年)3月23日に脚気のため死去。次男・光宗、四男・朝行、五男・光重と伊賀の方は貞応3年(1224年)6月の伊賀氏事件で流罪となるが、嘉禄元年(1225年)の北条政子の死後間もなく幕政への復帰を許された。 脚注
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