伊丹直賢伊丹 直賢(いたみ なおかた、元禄9年(1696年) - 明和3年9月24日(1766年10月27日))は、江戸時代中期の紀州藩士で一橋家家老。 通称は雅樂助、三郎右衛門、法名は義峻。官位は従五位下・兵庫頭。妻は佐野為成の娘、服部保守の娘、清家玄洞の娘。子に田沼意次妻、直宥、親豊、直彝。 略歴伊丹直胤(新六)の子。はじめ紀伊家家臣で徳川家重の御伽を務めた。徳川吉宗の将軍就任で幕府御家人、享保元年(1716年)吉宗の小姓となった[1]。享保11年(1726年)3月17日に小納戸となる[2]。 延享2年(1745年)9月1日より西の丸の勤務となり、延享3年(1746年)8月4日に一橋家徳川宗尹に附属され、用人の上席となり、200石を加増され、上野国吾妻郡において500石の知行を持つこととなった。同年10月20日に家老となり、12月18日に従五位下兵庫頭に叙任された[3] [4][2]。寛延2年(1749年)1月15日、500石加増で知行が1000石となる。同年12月1日には一橋家の大目付に移る。宝暦7年(1757年)10月28日には留守居となった。明和3年(1766年)9月24日、71歳で死去[2]。墓所は渋谷長谷寺。 参考文献
脚注
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