今田真人
今田 真人(いまだ まさと、1955年8月 - )は、日本のジャーナリスト[1][注 1]。 経歴
「吉田証言」の研究「慰安婦の強制連行」を証言したとして名高い、いわゆる「吉田(吉田清治)証言」について独自に調査を行い、吉田の証言を裏づける資料を発見したとする。 かつて吉田清治にインタビューをしたこともある今田は、吉田の語るような軍からの命令系統は存在しないという秦郁彦らの反論に対し、国会図書館で労務報告会の理事会で外地労務者の移入斡旋を担当することになったとの文書、軍慰安所の女性募集の認可権限を厚生大臣から地方長官に委譲するとした公文書を発見し、これが実際に労務報告会が軍への慰安婦を集めた可能性を示すことになり、吉田証言の裏付けとなりうるとした。また、済州島での慰安婦強制連行を目撃したという証人も現れたとしている。今田はその史料の写真とともに『「吉田証言」は本当だった 公文書の発見と目撃証人の登場』を執筆し公表した。前田朗(編)『「慰安婦」問題の現在―「朴裕河現象」と知識人』(三一書房2016年刊)に収録されている。 吉田が済州島で慰安婦狩りを行ったと語っている事について、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報国会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかったはずだと主張されている[3]。また、吉田の陳述では、西部軍 → 山口県知事 → 下関警察署長 → 吉田のラインで労務調達の命令が下されたとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定していると、秦は述べている。一方、今田真人は、軍の要求で県が行う指示要求系統が出来たとしている[4]。 吉田が所属した労務報国会は荷役業務や土木作業に従事する日雇い労働者の動員業務に従事する民間の組織であり、軍の命令で業務を行う指示系統はなく、労務者を集める日本内地の地方支部組織が朝鮮総督府の管轄下にある地域に出動して直接人員を集めることはないと、秦や東大教授の外村大[5]らから主張されていることに対して、今田真人は、思想国策協会『決戦下の国民運動』(1944年11月)に、外地労務の移入斡旋を労報〔労務報国会〕が担当することになったとの記述があることを発見した[4]。これについて外村は、資料を確認し、労務報国会が朝鮮半島からの労働者の動員に関りを持っていたことを認めた上で、労務報国会が「担当する」業務内容とは、朝鮮に職員を常駐させて事務手続きを行ったり、会員である事業主が朝鮮人労働者の要員確保を行おうとする際に、職員を労務補導員として派遣するというものだと述べている[6]。 今田は、吉田の語るような軍からの命令系統は存在しないという秦郁彦らの反論に対し、国会図書館で吉田証言の裏付けとなりうる資料を発見したとしている。また、済州島での慰安婦強制連行を目撃したという証人も現れたとしている[注 2]。 今田は、他にも自身が発見した公文書が市民団体の運動の結果、公表されたところ、慰安所の女性についても、その雇入認可の権限を厚生大臣から地方長官(労務報国会を管轄する)に委譲することを記載した通牒等があることも判明したとしている[7]。 秦郁彦によれば、1998年(平成10年)9月2日に、秦が吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたところ、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという[8]。 これに対して、今田真人は、新潮への回答は、元々の吉田の説明通り、明らかに関係者をまもるため、名前等の具体的内容を変えた部分があることへの説明であるのに、秦がこれを吉田が全くの詐話をしたかのように曲解していることを指摘、さらに、①なぜ、この種の重要なインタビューを電話で済ますのか、②吉田を詐話師呼ばわりしていた秦に吉田がそのようなことを本当に話したのか、そもそも対面で会ってすら貰えないから電話だったのではないか、③回答を都合良く編集してあるのではないか、との疑問を呈示している[9]。 今田真人は、戦中の準公文書ともいうべき1943年度「国民動員計画」の解説書の質疑応答部分に担当役職者が朝鮮人の朝鮮外への動員について、女性もいるが計画の中ではのせたことがないこと、ただある方面で必要上少々女子を集団移入として入れたものもあると述べているのを発見したとしている[10]。 著作単著
共著脚注注釈出典
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