今川範以
今川 範以(いまがわ のりもち)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士。今川氏真の嫡男で、今川義元の孫にあたる。母は早川殿(北条氏康の娘)。 生涯享年から逆算すると、元亀元年(1570年)誕生。父氏真は駿河国から追われ、早川殿の実家である北条氏に身を寄せている時期であり、範以も小田原で生まれたことになる。このとき氏真は北条氏康の孫の国王丸(のちの北条氏直)を猶子として迎えており、国王丸成長後は駿河の統治権を譲ることが決められていた。 範以が生まれた2年後の元亀3年(1572年)5月には小田原郊外の久翁寺にて氏真夫妻主催で祖父・今川義元の13回忌が開催され、その後両親とともに小田原から退去し、徳川家康の庇護下に入ることになる[1]。また、この法要には形式的に今川氏当主の座を譲られたとみられている国王丸が関与している形跡は無く、範以誕生後に国王丸が正式に北条氏の後継者に決まったことにより氏真との縁組が解消され、範以が今川氏の後継者と定められたと考えられている[2]。 範以は生涯を父氏真の傍らで送り、仕官することはなかった。山科言経の日記『言経卿記』の記述から氏真は天正19年(1591年)以後京都で暮らしていたことが確認できるが、範以も文禄3年(1594年)9月より『言経卿記』に登場している。 範以は、父とともに冷泉家や山科家など駿河以来今川氏と縁の深い公家衆と交わり、冷泉為満邸で開かれる連歌会・月次和歌会の常連であった。とくに山科言緒(阿茶丸、言経の息子)や冷泉為将(下冷泉家、藤原惺窩の弟)とは親しく、言緒とともに建仁寺両足院へ三体詩の聴講に出かけたり、互いの家を訪問したりしている記述もあらわれる。学問と和歌を好む人物だったことがその記述から窺われる。 慶長9年(1604年)4月15日の冷泉為満邸和歌会では講師(こうじ)を務めたが、これを最後に『言経卿記』に範以に関する記載はない。体調を崩したとみられるが、あるいはもともと病弱であったのかもしれない[3]。 慶長12年(1607年)、京都において父に先立ち病没。享年38。葬地は不明。弟の澄存が高野山高室院に範以を供養するための碑を建てている。また、今川氏菩提寺の万昌院(現在の萬昌院功運寺)に石塔婆が建てられている。 嫡男の範英(のち直房)は氏真に養育され、のちに江戸幕府に高家として取り立てられた。 系譜
『寛政重修諸家譜』によると、2男3女がある。
脚注注釈出典
参考文献
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