五藤 正形(ごとう まさかた、1866年9月9日(慶応2年8月1日[1][2])- 1936年(昭和11年)12月17日[1])は、明治・大正期の政治家。貴族院多額納税者議員。土陽美術会高知支部長[3]。土佐図書倶楽部(土佐史談会の前身)創設者[3]。板垣伯銅像記念碑建設同志会監事[4]。勲四等・士族[3]。
来歴
慶応2年8月1日(1866年9月9日)、土佐藩家老(5000石)・五藤正身(内蔵助)の長男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。母・利喜子(福留錠之助長女)は正身の側室であったため、正形は高知城下ではなく、父の所領の土居(※土佐藩における幕府へ無届けの城)で育つ[3][5]。
父の正室・加賀野井多賀子(桐間成卓(主鈴)女)に、子が生まれなかったことから、明治2年(1869年)3月、土佐藩家老(執政)の父[6]の招きにより、生母・利喜子と共に高知城下へ移る[3]。明治8年(1875年)2月26日、父・正身が享年57歳で歿したため、同年4月17日、亡父跡目を相続した[1][2][7]。維新後は、大地主の素封家として農業も営んだ[2][7]。明治16年(1883年)4月、土佐郡雑喉場、深尾丹吉郎(深尾丹波)の長女・秀と婚姻[1]。
明治26年(1893年)高知市議会議員に当選。明治30年(1897年)まで市会議員を務め、明治30年(1897年)から明治36年(1903年)まで高知県議会議員を務めた。明治37年(1904年)貴族院多額納税者議員に互選され[1]、同年9月29日に就任し[8]明治39年(1906年)9月21日まで在任した[8]。日露戦争時には高知恤兵通信会長を務め[1]、明治44年(1911年)高知市参事会員となる[1]。大正4年(1915年)高知武揚協会長に就任し、私立実科高等女学校創立に私財を擲ち、経営に当たった[1]。その他、土佐貯金銀行頭取などを務める[9]。大正10年(1921年)7月31日、安藝喜代香の推挙により、町田旦龍、森下高茂らとともに、板垣伯銅像記念碑建設同志会の監事に就任した[4]。
土佐図書倶楽部の創設
明治36年(1903年)所有する書籍数千冊を、公共の利に資するよう公開(蔵書は後に高知県立図書館に寄贈)。「土佐図書倶楽部」と名づけて毎月集会を開き、書評・研究内容をまとめて同名の雑誌を発刊した[3]。大正4年(1915年)、蔵書を高知県立図書館に寄贈。これが、明治44年(1911年)、三宅謙四郎、中城直正、武市佐市郎らによって作られた「高知県史編纂所」と融合し、大正6年(1917年)、発足したのが現在の「土佐史談会」である[10]。
墓所
昭和11年(1936年)12月17日逝去。享年71歳。
墓は筆山の塩屋崎側(吉田東洋墓の西方上)にある[3]。
親族
- 祖父:五藤正順(外記)- 土佐藩家老[3]
- 伯父:五藤正保(主計・榮吉[3])
- 伯母(正保妻):深尾蕃済(近江)長女・喜代子[3]
- 父:五藤正身(内蔵助)- 兄・正保の養子となり家を継ぐ[3]。戊辰東征に従軍、のち土佐藩大参事。
- 継母(正身正室):桐間成卓(主鈴)女・加賀野井多賀子[3]
- 母(正身側室):福留錠之助長女・利喜子[3]
- 本人:五藤正形
- 妻:深尾丹吉郎[11]長女・秀(墓は安芸市の五藤家墓所にあり[3])
- 長男:五藤正盛(早世)
- 次男:五藤哲雄(早世)
- 三男:五藤正雄(早世)
- 四男:五藤正枝(早世)
- 五男:五藤正道
- 正道妻:福岡孝顯妹
- 六男:五藤正敏(早世)
- 七男:五藤正教(早世)
- 八男:五藤正勝
- 庶子:五藤正義
- 庶子:五藤良政
- 庶子:五藤豊勝
- 長女:五藤 延(子爵・岩倉具明の弟・岩倉具廣に嫁した[1])
- 庶子:五藤千鶴
- 庶子:五藤藤尾
- 庶子:五藤 鈴
補註
参考文献
- 『人事興信録 第4版』人事興信所編、人事興信所、大正4年(1915年)
- 『板垣退助君略傳』池田永馬編、板垣伯銅像記念碑建設同志会、大正13年(1924年)9月5日
- 『人事興信録 第8版』人事興信所編、人事興信所、昭和3年(1928年)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、昭和22年(1947年)
- 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、昭和62年(1987年)
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編、大蔵省印刷局、平成2年(1990年)
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、平成11年(1999年)、ISBN 4875032854