五百大願経『五百大願経』上下二卷(具名『釋迦如來五百大願經』)は、京都高山寺に伝わる写本[1]が知られている。末尾に「比丘尼明行上下書寫日數五十日也」とある。この経典は『悲華經』[2]に言及される釈迦如来「五百の大願」の記述に基づき、『悲華経』の文を援用しながら、五百箇条の願を創作し、経典形式をとって、平安時代末期に日本で撰述された偽経である[3]。 京都高山寺に伝わる古写本『釈迦如来五百大願経』上下二卷本とは、帙の裏面に貼付されている智満法主による識語[4]によれば、承久三年(1221年)六月、濃州(美濃国)洲股(スノマタ)の戦で戦死した検非違使 山田重忠の妻で、夫の死後、明恵上人の導きにより仏門に入った明行尼[5]によって書写されたものとなっている。奥書には、「舎利を御前に於いて、一字書く毎に香華を供養、礼拝し、血を墨に刺滴たらせ和し、1237年3月22日から5月26日午時まで50日かけて上下巻を書写し終えた。心中本願応に佛智有る也、比丘尼明行。上下書写日数五十日也。[6]」と記されている。 『釈迦如来五百大願経』の内容上巻の標題に、『悲華經』の第六・七・八巻から抽出し、上下二巻と為したとある[7]、 その梗概は、釈迦如來が過去世に宝海梵志だった時、宝蔵仏の前で五百の大誓願を起こし、菩薩道を行じて悪世に成仏したことを説く『悲華經』十卷の中、第六卷から第八卷に亘る部分を抜粋、増補改変して作り上げたものである。即ち『悲華経』第七卷の滅後利益を明す部分の末尾には、「五百の誓願を作し己る」と記されている[8]が、その誓願が文字通り五百箇箇条ではなく、「多くの」という意味の比喩的表現である。それに対し、この写本(高山寺本)では、諸誓願をベースに五百箇条に区切り、各箇箇条の前後に「我れ未来に菩薩道を行ぜん時[9]……若し爾らずんば正覚を成ぜず[10]」等と誓願文形式の箇条書とし、更に記述内容の足りない所は、他の経文から転用補充、或は前後の文意が通じるように、文字通り五百箇条になるように構成したものとなっている[11]。 『釈迦如来五百大願経』撰述時期撰述について成田貞寛は、造顯当初からの解脱上人の関与を示唆している。峰定寺所藏、木造釈迦如来立像の胎内納入文書の中、阿彌陀佛の樹葉墨書結縁文に、「本師釋迦牟尼如來の五百の大願、一々に成就するが如くせん」と記されており、納入文書の日付が[[[正治]]元年(1199年)六月十日となっていることから、この時既に五百箇条の大願経として成立していたと推測している。[12]。また寳海梵志の誓願という『悲華經』の記述をもとに五百箇条の誓願が創出され、それに『悲華經』という同じ名称を付された経典が、『覺禪鈔[13]』に引用されているので、遅くとも平安末期には作られていたと推定している。 異本について愛知県七寺所蔵一切経の中に、平安末期に書写された『釈迦牟尼如来五百本願功徳法門経巻下』という端本があり、これは高山寺本『釈迦如来五百大願経』の異本である[14][15]。 脚注出典
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