五大院氏
概要詳細時期は不明であるが、遠藤為俊の娘は北条宗頼の没後に五大院左衛門尉に嫁ぎ、五大院太郎左衛門尉を産んだという[1]。 嘉元3年(1305年)の嘉元の乱では、北条時村らを殺害したとして、御内人の五大院九郎高頼が処刑されている[2]。また、同じく嘉元の乱の際に五代院 〔ママ〕平六左衛門尉繁員が北条宗方の追討に従事したという。 徳治2年(1307年)5月には、円覚寺の大斎に結番として、八番には五大院太郎右衛門尉が、十二番には五大院左衛門入道が参列している。 元亨3年10月26日(1323年11月25日)に円覚寺で行われた9代執権北条貞時の十三回忌供養には、五大院右衛門太郎高繁(五大院宗繁?)、五大院七郎、五大院左衛門入道が参列した。 『建武記』にて、建武元年(1334年)年の奥州式引付衆の一番の1人として五大院兵衛太郎が登場する[3]。 康永2年(1343年)9月の結城親朝の書状には五大院兵衛入道玄照の名前がある[4]。 脚注注釈出典
関連文献
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