二階堂基行
二階堂 基行(にかいどう もとゆき)は、鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府評定衆。 略歴建保元年将軍源実朝の学問所番に任じられ、和田合戦での勲功により相模国懐島殿原郷の地頭職を得る[5]。承久の乱においては鎌倉にあり加持祈祷や軍勢催促にあたった[5]。 建保7年(1219年)4月27日に出家、行阿と名乗った[6]。益田荘地頭となり、暦仁2年/延応元年(1239年)には評定衆となる[7]。 仁治元年(1240年)10月、子の行氏に地頭職[8]を譲り12月に死去した。 脚注
関連書籍
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二階堂基行
二階堂 基行(にかいどう もとゆき)は、鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府評定衆。 略歴建保元年将軍源実朝の学問所番に任じられ、和田合戦での勲功により相模国懐島殿原郷の地頭職を得る[5]。承久の乱においては鎌倉にあり加持祈祷や軍勢催促にあたった[5]。 建保7年(1219年)4月27日に出家、行阿と名乗った[6]。益田荘地頭となり、暦仁2年/延応元年(1239年)には評定衆となる[7]。 仁治元年(1240年)10月、子の行氏に地頭職[8]を譲り12月に死去した。 脚注
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