久慈城(くじじょう)は、岩手県久慈市にあった日本の城。別称、新町館・八日館。岩手県指定史跡[1]。
概要
久慈城は戦国時代の平山城で、九戸郡大川目村(現・久慈市大川目町字新町)に所在した。城跡は久慈川の左岸、新町集落の北方、大川目慈光院の東側の男山を利用して独立丘陵上に位置し[2]、北側後背地に空濠がめぐらされ、南側は主郭部で南北に長い平場をなして、丘陵頂部より平坦地が3段に作り出されていた。ふもとに位置する堀屋敷と称される平場が日常の居城と思われる。現在は、本丸跡・堀が残っている。
城跡は、1973年(昭和48年)10月8日に久慈市指定史跡に指定されたのち、2022年(令和4年)4月8日に岩手県指定史跡に指定されている。
歴史
久慈氏の居城で、久慈修理助治政の養子、12代と伝えられる備前守信実の頃からが大川目八日館に居住した[3]のが始まりと伝わるが、築城時期は不明だが、信実が当地に入ったのは文明年間(1469 - 87年)のころである。と、いわれている。(「摂待久慈家譜」)
天正19年(1591年)9月、久慈氏宗家である、久慈備前守直治は九戸信仲の三男中務政則を娘婿とした[3]ため、九戸政実の乱において九戸政実に荷担し、九戸城に籠城したが降伏し開城に伴い、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られ処刑され、久慈氏の嫡流が滅亡した。
没後、久慈城は南部信直の直轄下におかれることとなり、代官は久慈修理治興であった。
天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「糠部郡之内 久慈 山城 破 信直抱 代官 久慈修理」とあり、破却された。
脚注
参考文献
関連項目