丹羽氏勝
丹羽 氏勝(にわ うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国岩崎城主。三河国伊保城主。 出自岩崎丹羽家の祖は一色丹羽氏で、一色氏明が尾張丹羽庄に定着し、地名をとり丹羽氏を称した。なお、同じ織田家臣の丹羽長秀の児玉丹羽氏とは血縁関係はない。 略歴天文24年(1555年)、守山城主・織田信次の家臣・洲賀才蔵が織田信長の弟・秀孝を殺害する事件が起こる。信次は信長の怒りを恐れ逃亡したが、信次の家臣団は守山城に立て篭もり、その中に岩崎丹羽源六(氏勝)の名がある。信次の家老・角田新五の謀反の際にも名が見える[2]。それ以降は信長の直臣となった。 永禄12年(1569年)、伊勢大河内攻めに加わる[3]。元亀元年(1570年)6月、近江国で姉川の戦いに参戦したのち、同年8月、野田・福島攻城戦の一員になる[4]。同年9月、浅井・朝倉軍挙兵の報に接し坂本に移動。そのまま比叡山の攻防にも加わる[5]。天正3年(1575年)、越前攻めに参戦。天正5年(1577年)2月、信長に従って紀伊国雑賀攻めに加わる。 天正8年(1580年)4月24日、信長が鷹狩のために伊庭山に訪れたとき、氏勝の配下が大石を切り出す普請をしていたが、配下は手元が狂い信長の通り道先に大石を落としてしまった。信長は怒り、氏勝の家来一人をその場で手討ちにした[6]。 同年8月、林秀貞・安藤守就と共に、突然信長より追放される。理由は先年信長に逆心を抱いたためという[7]。 その後は各地を転々とするが、信長の死後には次男・氏重の居城である傍示本城に戻り、余生を過ごした。 慶長2年(1597年)、死去。享年75。 系譜脚注出典
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