丹波雅忠
丹波 雅忠(たんば の まさただ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・医師。医博士・丹波康頼の曽孫。名医と謳われた典薬頭・丹波忠明の長男。官位は正四位下・主税頭。 経歴医得業生から長元7年(1034年)に医道課試に及第し、長元8年(1035年)権医博士に任ぜられる。 後朱雀朝から後冷泉朝前期にかけて、医博士を務めながら、長元9年(1036年)近江掾、長暦4年(1040年)備後介、永承2年(1047年)丹波介と地方官も兼任した。永承7年(1052年)後冷泉天皇の病に対して薬による治療を行い、従四位下・侍医に叙任される。天喜5年(1057年)典薬頭・右衛門佐に補任。関白・藤原頼通の病を快癒させたことから、その推挙を受けて康平2年(1059年)施薬院使に任ぜられた。白河朝の承保4年(1077年)までに正四位下・主税頭に叙任されている。 医師としての名声は日本国外へも伝わり、日本扁鵲とも呼ばれたという。承暦4年(1080年)には高麗王・文宗が悪瘡を病んだことから、大宰府を通じて高麗に雅忠を招聘しようとしたが、高麗側の儀礼に不十分な点があることを理由として、朝廷は派遣を断っている(医師招請事件)。 寛治2年(1088年)2月18日卒去。享年68。最終官位は主税頭正四位下兼侍医丹波権守。 著作
官歴
系譜脚注参考文献 |