丹墀門成
丹墀 門成(たじひ の かどなり)は、平安時代初期の貴族。姓は多治比真人のち丹墀真人。内蔵助・多治比豊長の子。官位は正五位下・大和守。 経歴平城朝では巡察弾正を、嵯峨朝では少判事・大和少/大掾を務める。 淳和朝に入り、天長3年(826年)従五位下に叙爵し、天長5年(828年)丹波介に任ぜられる。当時、丹波国の土民は荒々しく教化に従わない状態であったため、古くから治めがたいと言われていた。そのため門成は物事に応じる前に笞罰を先んじて行う等の猛政を行うことで、数年の後に国内は道理が通じるようになり、同国の人々も賞賛するようになったという[1]。天長9年(832年)治部少輔に任ぜられ京官に復す。また翌天長10年(833年)多治比貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する[2]。 仁明朝に入ると、備前介次いで弾正少弼を歴任する。承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、山城国五道の一つである大原道を警固し[3]、同年従五位上に昇叙される。のち刑部大輔・大和国班田使次官・宮内大輔を経て、承和12年(845年)武蔵権守、翌承和13年(846年)武蔵守と武蔵国の国司を務める。それまで武蔵国においては盗賊が跋扈するような状態であったが、門成が着任して幾ばくもしないうちに、綱紀が粛正されたという[1]。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後まもなく大和守に任ぜられる。大和国では豪族らが気ままに振るまい制御できない状態にあったが、門成は豪族らを避けることなくこれまでのやり方で統治したところ、国内は安らかとなり人々は門成にあがめ仕えたという[1]。仁寿3年(853年)正月に正五位下に叙せられるが、同年3月22日病により卒去。最終官位は大和守正五位下。 人物非常に剛直な性格であった。才学はなかったが、地方官としての行政手腕に優れ、国司に任ぜられると必ず良い評判があがったという[1]。 官歴『六国史』による。
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