丸子多麻呂丸子 多麻呂(まるこ の おおまろ、生没年不詳)は、奈良時代の防人。姓は連。 概要相模国鎌倉郡(現在の神奈川県鎌倉市)の上丁。天平勝宝7歳(755年)2月に防人として筑紫国に派遣される。同月7日に、相模国防人部領使守従五位下・藤原宿奈麻呂によって多麻呂の歌が中央に届けられ、それが『万葉集』に収録された[1]。 『大日本人名辞書』は、丸子は「ワニコ」であり、和珥氏の祖である天足彦国押人命のひ孫・伊富都久命の末裔であるとしている[2]。 多麻呂の歌
脚注関連項目外部リンク |
丸子多麻呂丸子 多麻呂(まるこ の おおまろ、生没年不詳)は、奈良時代の防人。姓は連。 概要相模国鎌倉郡(現在の神奈川県鎌倉市)の上丁。天平勝宝7歳(755年)2月に防人として筑紫国に派遣される。同月7日に、相模国防人部領使守従五位下・藤原宿奈麻呂によって多麻呂の歌が中央に届けられ、それが『万葉集』に収録された[1]。 『大日本人名辞書』は、丸子は「ワニコ」であり、和珥氏の祖である天足彦国押人命のひ孫・伊富都久命の末裔であるとしている[2]。 多麻呂の歌
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