中野氏(なかのし)は、日本の武家の氏族。信濃国中野郷(現在の長野県中野市)を本拠地とし、代々、志久見郷(同県栄村)と中野郷西条の地頭職を務めたが、市河氏によってその地位を奪われた。
人物
- 藤原助弘(資弘、助広とも)
- 中野能成(中野右馬允入道、法名は妙蓮)
- 中野四郎
- 建仁2年(1202年)正月、幕府の御弓場始で射手を務める。同3年(1203年)9月の比企能員の変では、北条時政が比企能員を謀殺するために邸内で待ち伏せを行った際に召し出されている。能成の兄とも伝わり、能成の屋敷地や名田などを侵害していたため、同4年(1204年)2月21日には、幕府によって能成に安堵されている。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮の造営費用が全国の御家人に求められると、中野四郎左衛門跡が3貫文を納めた[2]。
- 中野助能(太郎)
- 中野助光(小太郎)
- 能成とともに文治5年(1189年)の奥州合戦に参戦し、建久元年(1190年)11月の頼朝上洛にも従い、建久4年(1193年)の富士の巻狩りに参加した。
- 中野忠能(次郎、法名は法蓮(宝蓮))
- 建長元年(1249年)12月15日には父・能成によって高井郡中野・志久見両郷の惣地頭職を譲り渡されている。なお、忠能には兄の太郎光成(後の太郎入道西願)がいたが、嫡子とするには相応しくない態度であったために地頭職を相続できなかった。ただし、幾らかの所領は光成や能成の娘(平出尼?)にも相続された。
- 袈裟御前(忠能の娘で釈阿とも号す)
- 小田切実道
- 中野長能(弥五郎、法名は定蓮、仲能とも)
- 忠能の養子。正応3年(1290年)11月17日に蓮阿から中野郷堀内・町田(内作田)、志久見郷湯山を譲られている。
- 中野正康
- 能成の孫。建長4年(1252年)12月28日付の書状に名前が確認できる。
- 中野為泰
- 母が後に武蔵国の広田為村の妻となり、為泰も広田氏を相続した。文永2年(1265年)閏4月18日に、後家尼(忠能の妻・蓮阿)や蓮阿の娘(忠能と蓮阿の娘・袈裟御前、釈阿とも)、中野長能(忠能の養子、仲能とも)と中野・志久見両郷の地頭職や所領を争っているが、悪質な訴えであるとして認められなかった。
- 中野泰重
- 長能と中野郷堀内・町田(内作田)、志久見郷湯山の所有権を争ったが、訴えは認められなかった。
- 中野右仲
- 中野家仲
- 中野幸重(次郎)
- 中野家平
- 中野家氏
- 中野左馬之助
- 中野頼兼
脚注
- ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」。
参考文献
- 信濃史料刊行会編『新編信濃史料叢書 第3巻 市河文書 諏方大明神画詞』(信濃史料刊行会、1971年)
外部リンク
- 長野県立歴史館. “市河文書”. 2022年2月18日閲覧。