中野城 (出羽国)
中野城(なかのじょう)は、山形県山形市中野にあった日本の城。 概要中野城は、室町時代から江戸時代初期にかけて存在した城である。 延文元年(1356年)出羽の南朝勢力に対抗するため斯波兼頼が陸奥国から下向し、最上郡を中心に勢力を広げる。3代最上満直の子中野満基が初めて中野(山形市)に館を築いた。中野は山形城の北方に位置し、六十里越街道(寒河江街道)と須川が交差する要衝に位置する[1]。 その後拡張され、最終的には東324メートル、西360メートル、南200メートル、北300メートルの堀と石垣に囲まれていた[1]。堀幅は5メートルから10メートル。東西南北に門があり、南門が大手口である。西の堀のすぐ西側を逆川(さかさがわ)が流れており、逆川の西には侍町・七日市場などの地名が残る。また、北東には寺院(雲祥院:最上義定菩提寺)が配されている。 天正2年(1574年)より最上義守・義光父子による天正最上の乱が勃発すると、中野城は義守方の有力な城として兵を繰り出し、義光と江俣で戦ったという。乱の終結後義守が隠居すると、義光の下で直轄領となった。天正12年(1584年)、寒河江氏との戦いで寒河江方の将柴橋頼綱(橋間勘十郎)が中野城まで攻め寄せるが、伏兵により撃退した。慶長5年(1600年)慶長出羽合戦では、近隣の城が明け逃げを行う中防御に努め、上杉軍に攻められることはなかった。 元和8年(1622年)最上氏が改易されると、中野城は廃城となった。 なお、現在では城は完全に消滅し[1]、跡地に建つ大郷小学校敷地に石碑が立っている。 逸話歴代城主歴代中野城主別説最上氏直轄 最上氏直轄 脚注出典
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