中西貞喜
中西 貞喜(なかにし さだよし、1895年(明治28年)8月25日 - 1984年(昭和59年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴佐賀県出身。1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。教育総監部砲兵監部に配属され、のちイギリスに駐在。 1936年(昭和11年)8月、整備局戦備課高級課員に就任。1938年(昭和13年)3月、整備局戦備課長となり、同年7月、砲兵大佐に昇進。1940年(昭和15年)3月、野戦砲兵第23連隊長に転じ日中戦争に出征。1941年(昭和16年)4月、企画院総務部第2課長に就任。同年10月、陸軍少将に進み太平洋戦争を迎えた。 1942年(昭和17年)7月、北支那方面軍参謀副長として出征。1943年(昭和18年)11月、軍需省軽金属局長に異動し、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進んだ。陸軍歩兵学校付を経て、1945年6月、第230師団長に就任。同年8月、広島市への原子爆弾投下により第59軍司令官・藤井洋治予備役中将が爆死したため、8月6日から12日まで第59軍司令官代理を務めた。岡山県において本土決戦に備え終戦を迎えた。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 脚注
参考文献
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