中川興長中川 興長(なかがわ おきなが、1853年11月20日〈嘉永6年10月20日[1]〉 - 1920年〈大正9年〉5月15日[1][2])は、明治・大正期の神職、宮内官、政治家、奈良華族。正三位勲三等[2]。貴族院男爵議員。旧姓・甘露寺[1]、旧名・堯祐[1]。 経歴山城国京都で権中納言・甘露寺愛長の七男として生まれる[1]。万延元年4月(1860年5-6月)興福寺五大院を相続し[3]、文久2年11月(1862年12 - 1863年1月)得度して住職に就任[1][4][5]。慶応4年4月(1868年)復飾を命ぜられ[1]、春日社新神司となる[1][5]。明治2年3月(1869年4-5月)、堂上格に列し、同年5月29日(7月8日)元服して昇殿を許された[1][5]。同年11月(12月)家号を中川に改名[1][4][5]。1875年(明治8年)3月28日、華族に列し[5]、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][6]。 石上神社少宮司兼大和神社少宮司、兼大講義、大神神社少宮司、広瀬神社少宮司、殿掌、宮内省属などを務めた[3][4][5]。 1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した[2][7]。その他、官有財産調査会委員を務めた[2]。 栄典墓所青山霊園1-ロ22-4 親族脚注参考文献
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