中川 忠勝 (なかがわ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。
略歴
初めは織田信雄に仕え、後に豊臣秀吉の馬廻りとなった。
慶長5年(1600年)7月2日、会津征伐のため家康のもと、浅野幸長、福島正則、黒田長政らとともに江戸城へ入り[3]、その後小山へ随行した後、関ヶ原の戦いの本戦において首級を挙げた[1]。戦後は美濃国可児郡・羽栗郡で3000石を領し、使番となり、大坂の陣にも従軍した。寛永5年(1628年)に山田奉行となり、従五位下・伊勢守に叙せられた。
寛永6年(1629年)9月15日、伊勢国山田で死去[1]。
脚注
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』第3輯 巻第四百九十七
- ^ 伯父で加賀藩士の中川光重の娘婿。のち光重の家を継いで加賀藩士。
- ^ 日本戦史
参考文献
- 日本戦史 関原役(1911、517p)
- 『寛政重修諸家譜』第3輯(国民図書、1923年)巻第四百九十七、p.611-612