中川乙由中川 乙由(なかがわ おつゆう、延宝3年(1675年)- 元文4年8月18日(1739年9月20日))は、江戸時代の俳人。通称、利右衛門宗勝。別号、梅我・麦林舎。法名は麦林舎乙由翁宗勝。伊勢国船江の新屋と号する豪商だったが、風雅遊興を好んだため、一代で家業を傾けた。 来歴14歳の頃、伊勢神宮に参詣した松尾芭蕉と接し、涼菟(新風館三世)に師事する[1]。やがて、伊勢に結庵した各務支考に兄事し、蕉門俳人として地位を確立する[1]。元禄11年(1698年)、涼菟・支考らとの七吟百韻一巻を収めた『伊勢新百韻』を井筒屋章兵衛から刊行する[1]。元禄16年(1703年)、涼菟の加賀越前方面への旅行に随行し、旅中の作品集である『山中集』に名を連ねる[1]。宝永元年(1704年)、各務支考が編集した『三疋猿』に「かの新百韻の役者を催して、こゝに三日三夜の舞曲ぞつくしける」とあり、涼菟・支考・乙由のグループが形成され、乙由が重要な位置を占めていたと分かる[1]。享保2年(1717年)、涼菟が没すると、伊勢俳壇の中心人物となり、その勢力は伊勢派と呼ばれるまでに成長した[1]。 作風乙由の唱えた麦林調は、低俗で安易な技巧的俳風ゆえに、広く大衆に受け入れられた[1]。平明軽妙な俳風ゆえに、美濃派と合わせて田舎蕉門、または支麦の徒と称された[2]。 作品
脚注
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