中島 みち(なかじま みち、1931年2月10日 - 2015年10月29日)は、日本のノンフィクション作家。本名、高橋 道(たかはし みち)[1]。旧姓、中島(なかじま)。
人物・経歴
京都府京都市出身[2]。1948年、東京都立武蔵高等女学校卒業[3]。東京女子大学英文科卒業[4]。1953年2月に大学卒業後、当時のラジオ東京(現在のTBS)にアナウンサー2期生として入社[5][6]。1958年12月にラジオ東京を退社[7][8]。1959年1月、ラジオ東京と嘱託契約しタレントアナ第二号に(中島道名義)[4]。1970年に中央大学大学院法学研究科(刑事法専攻)修士課程修了[9]。同年乳がん手術を機に医療の質や安全について関心を持って作家活動を始め、一貫して患者の立場から医療改革を訴え、医療に法律が関わる問題[10]とその接点となる諸問題、医療制度、安楽死、がんの告知、臓器移植、尊厳死など生命倫理の問題医療に関する問題をテーマした作品の執筆、訳書、評論活動が多く、脳死の状態を「見えない死」と紹介するなど、医療現場が直面する課題を社会に投げかけたり、看護の日を発案し制定を呼びかけた。1975年に第1回ジュニア・ノンフィクション文学賞受賞、1994年には第42回菊池寛賞を受賞した他、日本医療機能評価機構評議員、日本訪問看護振興財団理事なども歴任[11][2][3][9]。
2015年10月29日に慢性呼吸不全のため東京都稲城市の病院で死去した[11][12]。84歳没。
夫は元TBS報道局次長の高橋照明[4]。長男はTBS記者の高橋一世(1961年1月21日 - )[11]。
著書
- 『誰も知らないあした ガン病棟の手記』(中島道)時事通信社 1972 のち文春文庫
- 『クワガタクワジ物語』(1974年、筑摩書房、2002年に偕成社文庫)
- 『灰色の奇跡 あるガンワクチンの真実』講談社 1978
- 『がん病棟の隣人』毎日新聞社 1981 のち文春文庫
- 『悔いてやまず』毎日新聞社 1982 「悔いてやまず ガンで逝った夫」文春文庫
- 『見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1985
- 『日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎』文芸春秋 1991
亡き夫の父である松井太久郎がシンガポールの戦争資料館発行の資料集に日本軍による華僑虐殺が行われた太平洋戦争中のマレー半島占領時の司令官の一人として載せられていたこと、高嶋伸欣・林博史がこのマレーでの華僑虐殺に関する別の資料本を翻訳出版し虐殺生存者らの来日講演を図ったこと等をきっかけに、旧日本軍擁護の立場に立ち、高嶋・林らの先行研究や報告に対し、シンガポール・マレー半島における日本軍による虐殺数についてより少なく主張し、また、赤ん坊を日本兵が放り上げて銃剣で刺し殺したといった日本軍の残虐行為について否定することを主眼に、書かれた著作。医療関係のノンフィクションで知られた著者としては異色の本。
虐殺事件の証人として現地で虐殺事件の生存者である蕭文虎に取材、蕭を来日講演させることについては本人につらい思いをさせることとして、林らを批判している[13]。ただし、中島の著作中においても蕭本人は高嶋らの虐殺事件の掘起し活動や出版への尽力に感謝しているにもかかわらず、著者は蕭自身の真意をきちんと確かめてはいない。1988年の蕭文虎の来日講演時には蕭本人が日本兵による赤ん坊刺殺を目撃したことを語っている[14]。そのため遅くともその頃には、中島も蕭が単なる生存者というだけでなく赤ん坊刺殺の目撃者でもあることを知った筈と思われるが、その点については何ら触れず、また、著者も蕭自身の人柄自体は認めていた筈にもかかわらず、蕭本人に赤ん坊刺殺が実際にあったかどうかをあらためて確かめることもしていない[13]。
林の側では、中島が根拠のない自身の憶測と独断を重ねて結論を出すこと、事件自体の証人としては現地側は蕭の証言のみを取上げ他の生存者には何一つ聞かず、重要なものは加害者側である日本兵らの証言のみに依拠していることを批判している[15]。また、高嶋・林らの翻訳の元となった本は、もともと現地の中華大会堂がその費用と寄付金とで出版し、本の性格上無償で関係者らに配布することが予定されていたものの、遺族に虐殺被害者がいない会員から大会堂が費用を出すことに異論が出て、出版の話自体が止まっていた[16]。その事情は外部にはあまり知られていなかったが、本の入手を望んでいた高嶋・林が、後にその事情を知り、それまでの寄付金だけでは不足する部分を立替えることを申出たところ、出版の話が再開したものである。この経緯については、日本でも新聞報道され、高嶋・林らの編集による日本語の訳本でも説明されている。これについて中島は、現地新聞で出版自体が両名の「拠出金により初めて可能となったという驚くべき話が記されている」と書いており、これを林は自分らが経緯を隠していたかのように(つまり、あたかも林らの唆しや小細工により、実は両名が自身らのために金を出して出版されたものであったかのように)中傷するものと捉えている[15]。
なお、中島はシンガポールの戦争資料館発行の資料集記載の松井太久郎とされる写真につき、これを松井太久郎の写真ではなく実際には松井石根(南京虐殺事件の責任者として処刑された人物)の写真だとしている[13]。元ジャーナリストの加藤裕はこの写真を自身の著書で紹介し、また別のシンガポール中華総商工会議編の記録集にも全く同じ写真が載っていて、そちらでは松井太久郎と西村琢磨(近衛師団長として、やはり日本軍のマレー半島侵攻に参加している。)の写真にキャプション(説明文)として付けられた名前が資料館の写真とは逆になっていることを報告している[17]。中島は著書で舅を最期まで看病しており眼鏡を外した写真であっても間違えることはないとし、加藤自身は中島のこの主張を真に受けているが、実際の写真を見る限り、中島の主張とは異なり、松井石根の写真は掲載されていず、中華総商工会議の記録集のキャプションが正しいものとなっている。中島が見たと語っていた資料集の写真は、単に松井太久郎の写真と西村琢磨の写真に付けられたキャプションが入れ違っていただけである。(これは、別の虐殺事件における西村琢磨の戦犯責任と関わってくる。参照:西村琢磨#戦犯裁判)
- 『新々・見えない死 脳死と臓器移植』文芸春秋 1994
- 『「脳死時代」の生き方と死に方 臓器移植、ガン告知、尊厳死 対話』時事通信社 1994
- 『奇跡のごとく 患者よ、がんと闘おう』文藝春秋 1999 「がん・奇跡のごとく」文春文庫
- 『患者革命 納得の医療納得の死』2002 岩波アクティブ新書
- 『脳死と臓器移植法』(2000年、文春新書)
- 『患者革命-納得の医療 納得の死』(2002年、岩波アクティブ新書)
- 『がんと戦う、がんから学ぶ、がんと生きる』(2003年、文春文庫)
- 「誰も知らないあした」「がん病棟の隣人」「悔いてやまず」の合本
- 『「尊厳死」に尊厳はあるか-ある呼吸器外し事件から』(2007年、岩波新書)
翻訳
- ペギー・アンダーソン『ナース ガン病棟の記録』時事通信社 1981
- バーバラ・ハットマン『コード・ブルー 緊急蘇生処置』時事通信社 1984
- ドミニク・ラピエール『愛より気高く エイズと闘う人々』飛鳥新社 1993
出演番組
脚注
参考文献
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 資料編
- 付録のDVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録されたPDFファイル
- 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)