上田敏
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日[2] - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の評論家・詩人・翻訳家・英文学者。学位は、文学博士[2][3]。京都帝国大学文科大学教授[2][3]。族籍は静岡県士族[2][3]。「 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 概要1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「 小説家としても、唯一の小説である『うづまき』を1910年(明治43年)に著しており、享楽主義者である主人公の牧春雄は作者の上田敏の経験がモチーフになっている。ウォルター・ペイター作品の影響も強い。また島崎藤村の長編小説『春』に登場する「福富」は上田敏がモデルである。 日本にヴェルレーヌの詩やジョリス=カルル・ユイスマンスの詩を紹介したのも上田敏である[4]。 略歴旧幕臣上田絅二(けいじ)の長男として1874年(明治7年)、東京築地に生まれる。絅二は昌平黌教授をつとめた儒学者の乙骨耐軒の次男で[5]、英学者で沼津兵学校教授の乙骨太郎乙は伯父(耐軒の長男)[6]、その子で音楽評論家の乙骨三郎は従兄弟に当たる。 静岡尋常中学、私立東京英語学校、および一高を経て、1897年(明治30年)東京帝国大学英文科卒。文学士の称号を得る[2]。講師小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)。 一高在学中、田口卯吉邸に寄寓しており、平田禿木を通じて[5]北村透谷・島崎藤村らの『文学界』同人となり、東大在学中、第一期『帝国文学』の創刊(1895年(明治28年1月))にかかわる。 1902年(明治35年)6月、主宰誌の『芸苑』と廃刊になっていた森鷗外の主宰誌『めざまし草』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。その後、鷗外とは家族ぐるみで交際した。 明治大学文学部で教鞭を執っていたが、1908年(明治41年)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となり、同志社大学にも出講した[7]。この頃、「マント事件」によって一高を退学し京都帝大英文科に進学していた菊池寛が上田に師事し、上田からの感化でアイルランドの戯曲家ジョン・ミリントン・シングに傾倒した。1910年(明治43年)2月15日、慶應義塾大学部文学科顧問に就任。同年6月、文学博士の学位を授けられる[2]。 1916年(大正5年)7月9日、尿毒症のため東京市芝区白金三光町(現:東京都港区白金)の自宅で急逝。享年41。戒名は含章院敏誉柳邨居士(森鷗外の撰)[8]。 人物後述の#主な作品に見る通り、ヨーロッパの当時の文芸思潮を熱心に紹介し、後進を啓発した。たとえば永井荷風は、「上田先生などの著述の感化で、西欧の風物文物へのあこがれを持った」由を綴っている(書かでもの記)。住所は京都市上京区岡崎町[3]、東京市芝区白金三光町。 家族・親族学者や海外留学経験者が複数いる。 上田家
親戚
主な作品
脚注
参考文献
外部リンク |