上毛野稲人
上毛野 稲人(かみつけの の いなひと)は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。官位は正五位下・刑部大輔。 経歴称徳朝の天平神護3年(767年)正月に従五位下に叙爵すると、同年(神護景雲元年)10月には伊治城築城の功労により従五位上と続けて昇叙される。 光仁朝に入り、宝亀3年(772年)右京亮を経て、宝亀5年(774年)3月に陸奥介に任ぜられる。同年10月には陸奥国鎮守将軍・大伴駿河麻呂による蝦夷征討が行われているが、この征討事業における稲人の活動は明らかでない。宝亀9年(778年)主税頭として京官に復す。 宝亀11年(780年)越後員外守として再び地方官に遷ると、延暦2年(783年)越後守に昇格するなど、光仁朝末から桓武朝初頭にかけて越後国の国司を務める。延暦8年(789年)刑部大輔として再び京官に復し、時期は不明ながら位階は正五位下に至る。 延暦18年(799年)稲人は既に卒去していたが、稲人所有の賤民(家人か)であった宅敷女の息子二人が物部姓の賜姓を受けている。 官歴『続日本紀』による。
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