三吉氏
三吉氏(みよしし、みよしうじ)は、日本の氏族の一つ。藤原鎌足の子孫、藤原兼範(かねのり、藤原行成の子)を祖とし、備後国の国人領主として成長した備後三吉氏が有名。 備後三吉氏の歴史備後国へ下向、国人領主として成長する12世紀に兼範が近江国から備後国三吉郷に下向、その子・兼宗(かねむね)が三吉大夫と称し、三吉氏の初代となった。比叡尾山城を拠点とし、国人領主として備後国内で勢力を拡大していった。 鎌倉幕府滅亡の頃、三吉氏は後醍醐天皇に味方し、後に中国地方に下ってきた足利直冬に従った。直冬の勢力が衰えると、近隣の有力大名である山名氏や大内氏、尼子氏の下を転々とした。戦国時代の当主・三吉致高(むねたか/おきたか)は、天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いの前哨戦である宍戸氏の祝屋城攻撃、そして本戦である吉田郡山城の戦いにも尼子方として参戦した。その後は大内方に転じ、月山富田城の戦いにも大内方として参戦した。そのため天文13年(1544年)には尼子氏の攻撃を受けたが、毛利氏の援軍を受けて撃退した(布野崩れ)。 毛利氏に従属、関ヶ原の後に広島藩士へ大内義隆が大寧寺の変で自害すると、当主の三吉隆亮(たかすけ)は天文22年(1553年)に父の三吉致高とともに自立性を保ちながら毛利元就に従属した。また、三吉致高の娘(一族の娘とも)を元就の側室とした。毛利氏に従属後は、その家臣として中国地方各地に出陣し、多くの戦功を挙げた。三吉広高は天正19年(1591年)頃に比熊山城を築き、新たに居城とし、その出城を現尾関山公園のあるところに設置した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦したが、不戦敗を喫して毛利氏は防長移封となった。広高はこれに従わずに浪人して京都に上り、後に安芸広島藩主となった浅野氏に取り立てられた。以降、三吉氏はそのまま広島藩士として浅野氏に仕えた家系と、長府藩士として再び毛利氏に仕えた家系とに分かれて続いた。長府藩士の家系からは幕末の志士、三吉慎蔵(三吉時治)が出ている。 備後三吉氏歴代当主(* < より右は偏諱を与えた人物(主君)を示す。)
系譜
脚注
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