三ヶ島葭子三ヶ島 葭子(みかじま よしこ、本名:三ヶ島よし→倉片よし、1886年(明治19年)8月7日 - 1927年(昭和2年)3月26日[1])は、日本の女流歌人。生涯で6000首以上の短歌を残したという[2]。 俳優の左卜全(本名:三ヶ島一郎、1894年 - 1971年)は、異母弟にあたる[1]。 来歴埼玉県入間郡三ヶ島村堀之内(現・所沢市堀之内)の出身。埼玉県女子師範学校(現・埼玉大学教育学部)を肺を患い中退。その後、東京府西多摩郡小宮尋常高等小学校(現・あきる野市立五日市小学校)[1]の代用教員をしながら[3]、与謝野晶子の門下となった。「女子文壇」「スバル」などに短歌・散文を発表した[1]。 1914年、退職して倉片寛一と結婚し一女みなみ[4]同年末に産む[5]。 上京後、「アララギ」「日光」「青鞜」などにも作品を発表。島木赤彦の門下となり、今井邦子や原阿佐緒とともにアララギ女流の新鋭と期待されていたが、親友原阿佐緒と妻子のあるアララギ重鎮石原純との恋愛問題に関し、二人を支援する論文を「婦人公論」に発表したために破門となった。1926年(大正15年)には古泉千樫の「青垣会」結成にも参加した[1]が、その翌年3月26日、脳出血のため東京市麻布区の自宅で死去した。40歳没。戒名は浄貞妙芳大姉[6]。生前の歌集は『吾木香』一冊のみだが、遺児倉片みなみの尽力により全歌集などが没後刊行された。 歌集
関連書籍
脚注
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