七理重恵

七理 重恵(しちり じゅうけい、1887年 - 1965年5月22日)は日本歌人中国文学者[1]雅号紫水[2]兵庫県二方郡高末村(現美方郡新温泉町)出身[1]

1902年に久斗尋常小学校代用教員に採用され、その後兵庫県御影師範学校(現神戸大学)に入学。在学中より「中学世界」「文章世界」に短歌俳句文章などを投稿する[3]1915年発行の「美方郡誌」に、七美郡の各地を詠んだ短歌が掲載される。

法政大学立教大学、帝国女子専門学校(現在の相模女子大学の前身)の教授を歴任した[4]日中国交正常化の前から日中の文化交流に務め、1919年に中国人留学生のために「留学生の会」(後に「中日親和会」に改称)を設立し日中親善に尽力した[1]

1965年5月に没したが、その生誕地である新温泉町高末地区に歌碑が建立された[1]

著書

  • 『謡曲と元曲』積分館、1926年
  • 『支那民謡とその国民性』明治書院、1938年
  • 除村一学(編)『支那文化談叢』名取書店、1942年
  • 『友邦支那歴史物語』フタバ書院成光館、1942年

脚注

  1. ^ a b c d 七理重恵”. 新温泉町. 2017年12月9日閲覧。
  2. ^ 「謡曲と元曲」1926年積分社刊 2ページ
  3. ^ 七理重恵 | 新温泉町ゆかりの先人(資料) | 添付資料 | 新温泉町”. www.town.shinonsen.hyogo.jp. 2020年9月24日閲覧。
  4. ^ 「支那文化談叢」1942年名取書店刊 257ページ