丁士源
丁 士源(てい しげん、中国語: 丁士源; 拼音: Dīng Shìyuán; ウェード式: Ting Shi-yüan)は、清・中華民国・満州国の政治家・軍人・外交官。安徽派に属した。字は間槎、号は藹翁。最終階級は清軍正参領(大佐に相当)、北洋陸軍中将。 事績1895年(光緒21年)、天津北洋水師学堂を卒業し、翌年に毅軍歩兵少尉および武衛左軍副軍校(中尉に相当)に任官、まもなく協参領(少佐に相当)に昇進した。その後、上海聖ヨハネ大学に進学、1902年(光緒28年)に卒業するとイギリスに留学し法律を学んでいる[1]。1904年(光緒30年)に帰国すると北京崇文門関税総稽査、修訂法律館内修官、練兵処軍政司法律科監督を歴任、1906年(光緒32年)には陸軍正参領(大佐に相当)となった。1907年(光緒33年)、留学生に随行してフランスに赴き、帰国後の1911年(宣統3年)に陸軍部軍法司司長、高等巡警学堂総弁、修訂法律委員会委員などの職を歴任した。武昌起義が起こると、陸軍大臣行営処副官長兼総執法官に任命され鎮圧に向かう[2]。丁の立場は、鎮圧軍司令官の廕昌、参謀長の易乃謙に次ぐ地位であった。 中華民国成立後、鎮圧軍側であった丁は、しばらくの間天津に寓居する。翌1913年(民国2年)、北京政府へと参加、陸軍少将参議に就任し、さらに陸軍協都統なども務める。翌1914年(民国3年)1月、江漢関監督[3]、4月に漢口工巡事宜兼、6月には外交部特派湖北交渉員に任命され、1916年(民国5年)、中将心得[4]。 1917年7月、京綏鉄路管理局局長、9月には交通部交通研究會會員に起用される[5]。1918年(民国7年)3月、王揖唐、徐樹錚らが安徽派の支援政党である安福俱楽部を設立すると、評議会会員(評議会主任・田応璜)となる。12月、京漢鉄路管理局局長も兼任した。翌1919年(民国8年)4月2日、国務院交通部航空事宜籌備処処長(11月11日より国務院航空事務処と改称[6])、竜煙鉄鉱公司会弁、大総統府侍従武官を務め、10月10日に中将となったが[7]、翌年罷免された[2]。更に、京綏鉄路局での資金1000万銀元の着服が発覚。段祺瑞が安直戦争で大敗を喫し失脚すると、北京の日本公使館に逃げ込む。 1922年11月、指名手配解除となったが、天津に留まり、1923年(民国12年)に日系メディア・日報報館の編集者、翌1924年(民国13年)には同じく日系メディア『日日新聞』[8]編集長となる。11月、財政整理会副会長兼国内公債局総理[9]、中法商工銀行中国側理事に任命された。また中法実業管理公司の次席董事をつとめ、翌年9月、中法実業管理公司華總理兼董事会副会長代理となる[10]。後に航空籌備処処長、安国軍空軍司令を歴任している。国民政府時代の1929年(民国18年)には中華匯業銀行経理に就任した[2]。 その後、丁士源は満州国に転じている。1933年(大同2年)4月に駐日満州国代表公署が駐日満州国公使館に改組されると、駐日代表の鮑観澄に替わり丁が公使に任命された[11]。1935年(康徳2年)5月、公使館が大使館に改組されるに伴い公使を辞任(後任は初代大使の謝介石)[12]、同年7月、満州中央銀行監事に就任している。1945年(康徳12年)、死去[2]。享年67。 著作
注
参考文献
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