ヴェーラ・チャプリナ
ヴェーラ・ヴァシリエヴナ・チャプリナ(露: Вера Васильевна Чаплина、英: Vera Vasilievna Chaplina、1908年4月24日 - 1994年12月19日)は、ソビエト連邦およびロシアの児童文学作家、動物文学作家、動物園職員[1][2][3][4]:78。「チャプリナ」は「チャプリーナ」とも表記される[5]。30年以上の間、モスクワ動物園に尽力した[4]:80[6][7]。およそ1年半の間、仔ライオンを自宅アパートで飼育したことでも知られる[2]。著書の総発行部数は、2019年時点で2000万部を超えている[8]。1941年-1945年大祖国戦争勇敢労働記章などを受章した[9]。 生涯生い立ちモスクワのボリシャヤ・ドミトロフカ通り16番にある、母方の祖父、ウラジーミル・チャップリンの家に生まれる[4]:78[10][11]。チャップリン家は代々貴族の家系である[1][10]。ウラジーミルは暖房および換気を専門とする技術者であり、建築家のコンスタンチン・メーリニコフを教育した人物でもある[10][4]:78。父親のヴァシーリー・ミハイロヴィッチ・クティリン (Василий Михайлович Кутырин) は、モスクワ大学法学部出身の弁護士であった[12][13][4]:78。母親のリディア・ヴラジーミロヴナ・チャプリナ (Лидия Владимировна Чаплина) は、モスクワ音楽院をピアノ専攻で卒業した[10][4]:78。 ヴェーラは3人きょうだいの真ん中に生まれ、1歳年上の兄の名はヴァーシャ (Вася) であり、1歳年下の妹の名はヴァーリャ (Валя) である[13]。チャプリナは幼少期から家でペットを飼っており、動物に対する愛情が強かった。これは父方の祖父、ミハイル・ドミトリエビッチ・クティリン (Михаил Дмитриевич Кутырин) の影響を受けているものとされる[10]。ミハイルは犬を溺愛しており、帝国ロシア動植物環境適応協会の会員でもあった[10]。 1917年の十月革命の後に発生したロシア内戦による混乱の中で、当時10歳であったチャプリナは迷子になったが、警察に保護されてタシュケントの孤児院に送られた[14][15][1][4]:78。孤児院では、ひよこや仔猫、仔犬を飼うことができた[16]:51。チャプリナは「この悲劇を乗り越えるのに、ペットに対する愛情が役に立った」との旨を後に語っている[4]:78。1923年、15歳のとき、母親に探し出されて一緒にモスクワに戻り、まもなく動物園に通い始める[15][6][4]:78。 モスクワ動物園へ1924年にモスクワ動物園の若い動物学者のサークル "Кружок юных биологов зоопарка" が設立され、チャプリナは同サークルを主宰するピョートル・マンテイフェルに誘われて加入する[10][15][4]:78[16]:52と、他のメンバーとともに、動物園のスタッフが飼育動物に餌を与えたり、檻の中を掃除したり、動物の行動を観察して日誌に記録したりする作業を手伝った[10]。チャプリナの最初の短編物語に、この日誌の内容が反映されていることが後に明らかになっている[10]。 1926年から1927年にかけて、チャプリナはオオカミのアルゴとともにいくつかの映画の撮影に参加し、アルゴは役を与えられチャプリナはトレーナー役で出演した[17][10]。1927年の冬に、学生のアレクサンダー・ミハイロフ (Александр Михайлов) と出会い、1928年の春に2人は結婚している。翌1929年に息子のトーリャ (Толя) が誕生し[13][14]、その次の年(1930年)に動物園の係員になる[13]。25歳を迎えた1933年、就職して3年目のチャプリナはモスクワ動物園の革新者になり、幼い動物の遊び場 "Площадка молодняка Московского зоопарка" を設けるよう提案し、実現すると自ら最初のリーダーとなる[18][19]。
作家デビュー1933年6月、チャプリナの最初の短編物語 "Трильби" (Tryl'by) が『ヤング・ナチュラリスト』誌に掲載される[20][10][19]。このすぐ後に、国立の児童文学出版所Детгиз(現・ジェーツカヤ・リテラトゥーラ)は、幼い動物の遊び場に関する書籍を出版する契約をチャプリナと結ぶ[6][16]:52。1935年、同出版所から短編物語集 "Малыши с зелёной площадки" (Malyshi z zeronoy ploshchadki) が出版される[16]:52。 1935年から1936年にかけて、ライオンのキヌーリを自宅アパートで育てる[2]。この出来事は、新聞やニュースでさかんに報道され、1935年の秋には国内だけでなく外国にも広く知れ渡ることとなった。様々な国から多くの便りが届くようになり、チャプリナの住所を詳しく知らない人でも、宛て先として単に「モスクワ動物園、キヌーリ・チャプリナ」あるいは「モスクワ、ボリシャヤ・ドミトロフカ、チャプリナさんちのキヌーリ」と書くだけで彼女のもとに届いた[4]:79[16]:52。1935年12月、アメリカ合衆国の新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』がチャプリナとキヌーリについて大きく取り上げる[4]:79。 1937年、物語集 "Мои воспитанники" (Moi vospitanniki) が発表される。物語『キヌーリ』も収録したこの物語集は好評を博し、後に外国でも出版されている[10]。1937年、チャプリナはモスクワ動物園の捕食動物部門の責任者となる[16]:52。1938年6月、イギリスの『マンチェスター・ガーディアン』紙(現・ガーディアン紙)がチャプリナと動物たちについての記事を掲載する[21]。1939年、物語集 "My animal friends" がイギリス・ロンドンのジョージ・ラウトレッジ・アンド・サンズ社から出版される[4]:79。 戦争と戦後大祖国戦争が始まると、避難のために一部の動物とともにウラル動物園に疎開する[14][7]。1941年5月、モスクワ動物園の特別な労働者として表彰され[9][4]:80、1942年にウラル動物園の副園長となる[16]:53。疎開先からモスクワに戻った1943年の春、モスクワ動物園の生産事業の長となる[12][16]:53。1944年3月、Нагрудный знак «Отличник городского хозяйства Москвы» (Nagrudnyy znak "Otlichnik gorodskogo khozyaystva Moskvy" ) を受章する[4]:80。1940年代後半からは、児童文学作家のゲオルギー・スクレビツキーとの共著も発表するようになる[4]:80。 モスクワ動物園を辞した1946年より、執筆活動に専念する[14][4]:80[7]。1947年、『しろくまのこフォムカ』("Фомка-белый медвежонок”) や改訂版『キヌーリ』などを収録した短編物語集 "Четвероногие друзья" (Chetveronogiye druz'ya) が出版される。この作品は好評を博し、発売から数年後にはベルリンやワルシャワ、ブラチスラヴァやプラハでも刊行されている[4]:80。スクレビツキーとベラルーシの西部へ旅行した後、1949年にエッセイ "В Беловежской пуще" (V Belovezhskoy pushche) が出版される[4]:80。1950年、レフ・カッシーリおよびサムイル・マルシャークから強く推薦されてソビエト連邦作家同盟に加入する[4]:80[21][7]。 チャプリナの著作は1950年代から1960年代にかけて、東ヨーロッパなど社会主義国の他に、アメリカ合衆国や日本、フランスやポルトガルなどに紹介された[12][4]:81。1960年代から1970年代に英語の他、スペイン語、ドイツ語、ヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、韓国語など多くの言語に翻訳されて出版された[21]。1994年に死去する。墓所は、モスクワのヴァガニコヴォ墓地である[4]:78[12]。 キヌーリ→詳細は「キヌーリ」を参照
1935年4月にモスクワ動物園でメスのライオンが生まれたが、母親が授乳などの育児をしようとせず、仔ライオンの健康状態が良くなかったため、チャプリナは、ボリシャヤ・ドミトロフカ通りの自宅アパートに連れて帰り養育することにした。ライオンは「取り残された子」という意味をもつキヌーリと名付けられた。チャプリナは哺乳瓶を使ってミルクを与え、飼い犬のシェットランド・シープドッグのペリ (Пери) は、キヌーリの身体を温めたり優しく舐めたりした。キヌーリは1年半ほどアパートで過ごした後、動物園に戻された[10][22][15][2]。 受賞・栄誉
著作
絵および写真次のような動物画家やイラストレーターが、チャプリナの著作に絵を描いた[4]:80。 次のような写真家が、チャプリナの著作に添える写真を撮影した[4]:80。 脚注
参考文献
外部リンク
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