ヴィルンスドルフ
ヴィルンスドルフ (ドイツ語: Wilnsdorf) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州アルンスベルク行政管区のジーゲン=ヴィトゲンシュタイン郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。 地理位置ヴィルンスドルフは、ロタール山地の南の支脈中、ジーゲンの南東約 9 km(直線距離)に位置している。ジーガーラント南部の地形は、入会地であった針葉樹林と、岩の多い地盤と一部が急峻な斜面であるため広い耕作地に適していないため草原を利用した農業によって特徴付けられる。町域は、歴史的な発展の経緯から多くの谷の区画に分割される。ヴァイス川の谷が最大の谷で町域の南東から北および北西に広がっている。主邑のヴィルンスドルフ地区は、ヴァイス川の谷の南側、町内を南から西に向かって広がるヘッケンバッハタール(アイゼルンバッハ川の谷)に位置している。南西の角にヴィルデバッハ川の谷がある。 地質学ヴィルンスドルフは、ライン・シーファー山地の一部であるロタール山地の支脈内、いわゆるジーゲナー盆地に位置している。ジーガーラントの山地は、様々な粘板岩、硬砂岩、そして一部が玄武岩(たとえば、アステンベルク)で形成されている[2]。その南西部の一部はヴェスターヴァルトの山並みに連なっている。 町域の広がりと土地利用
町域の総面積は 72.04 km2 である。このうち 約 58.3 % が森林であるが、この値は郡の平均値より 6.1 % 低い。農業用地は約 20.9 % で、こちらは郡平均よりもほぼ 2.2 % 高い。住宅地と交通用地は 11.1 % と 8.2 % で、ジーゲン=ヴィトゲンシュタイン郡の平均(それぞれ 8.4 % と 6.8 %)よりも高い[4]。 隣接する市町村ヴィルンスドルフは、西から北西はジーゲン、北から北東はネトフェン、南はブールバッハ、南西はノインキルヒェン(以上、いずれもジーゲン=ヴィトゲンシュタイン郡)、南東はハイガー(ヘッセン州ラーン=ディル郡)と境を接している。 自治体の構成ヴィルンスドルフは11地区で構成されている。
気候町内の気候は、主に南西風から西風とロタール山地の支脈にあたる高地に位置することにより支配されている。しばしば発生する厚い雲が、ジーガーラント特有の高い降水量とかなり低い気温をもたらす。年間降水量は、カルトアイヒェの高所では約 1,000 mm、町の東部では 912 mm である。1881年から1930年までの平均気温は 7.1 ℃と測定されている[5]。1929年の冬には、寒波によりこの町の気温は -25 ℃まで低下した[6]。 自然保護区ヴィルンスドルフ町内には5つの自然保護区 (NSG) がある。
歴史入植ヴィルンスドルフ地域は、ラ=テーヌ時代に初めて入植がなされた。紀元前後のいくつかの出土品や精錬施設はケルト人のものであることが証明されている。それ以外の精錬所跡や鉄鉱石採掘跡は10世紀から13世紀の中世のものである。この地域における最終的な入植は、800年から950年までのフランク人の支配地域拡大の時代になされた[13]。 ヴィルンスドルフ集落は1185年10月24日に Willelmesdorf という名称で初めて記述されている。この文書の中で Hermannus de Willelmesdorf という人物が、ハインリヒ6世王の寄進の立会人として名を記されている[14]。この他に、Wielandisdorf という名称も遺されている。これは、伝説の鍛冶屋ヴィーラント (Wieland) がこの集落の近くに住んでいたという言い伝えに因るものである。時代とともに様々な表記がなされたが、1542年に現在の Wilnsdorf の表記が現れた。1257年から1340年までは Willandisdorf、1451年から1636年までは Wilnstorff が主流の表記であった。1728年には、Weiland 6. Dorff という表記がなされているが、この 6 は Weilandsdorf の s を表している[15]。 ヴィルンスドルフ地区内には、同名の集落の他に多くの農場や入植地があった。最大の農場がデュッカーホーフであった。この農場は、1563年に初めて記録が遺されている。郷土の文献学者は、この農場が1340年と1479年に記述されている農場群の1つであると推測している。その他の農場としては[16]、
鉄鉱石の採掘や鉄の精錬は、ジーガーラントの他の集落と同様に、この地でも古くに遡る。現在の町内で最初の鉱山は、ヴィルンスドルフとヴィルデンとの間のラッツェンシャイト銀鉱山、のちのランデスクローネで、1298年に初めて記録されている。この坑道は1900年まで採掘がなされた。最初はアドルフ・フォン・ヘッセンのための銀採掘がなされていた[18]。オベーレ坑もこの頃に造られたが、アウトバーンの工事のために埋められた。1777年/1778年まで、中世の鉱山の古いボタ山は、道路工事用資材に転用されていた。1489年新しい坑道が設けられ、「ツー・ウンゼラー・リーベン・フラウエン」坑(我らが聖母)と名付けられた。 ヴィルンスドルフの領主とその城12世紀末から17世紀中頃までヴィルンスドルフを本拠としていたフォン・コルベ騎士家は、1185年に初めて文献に記録されている。この騎士家は当時、ナッサウ=ジーゲン侯領のフォークトであった。この古くからの土着の家門は、ナッサウの歴史研究家アルノルディの時代には「ジーゲン地方に深く根付いた貴族」の1つに数えられている[19]。この騎士家はこの地に住んだ一族に源を発し、13世紀にはすでにジーガーラントで大変に大きな影響力を有していた。ホルディングハウゼンやヘースの領主よりも強力な勢力となっていたと言われる。しかしフリードリヒ・フィリッピは、ヴィルンスドルフの領主家はザウアーラントのシュマレンベルクから到来した一族で、11世紀からここにあった Colve という名の一門の末裔であると考えている。1277年の文献で最初に Kolbe という別名がヴィルンスドルフと関連づけて記述されている。しかしこれはフィリッピが考える通りのヴィルンスドルフ家のことではなく、ヘルマン・フォン・ヴィルンスドルフの文書によれば、ホルディングハウゼンの土地を購入した親類にあたるコルベ家である。1309年以降、ヴィルンスドルフ家に対してもコルベという別名が用いられるようになった。1467年9月29日の文書では、ヴィルンスドルフの領主が公式にコルベン・フォン・ヴィルンスドルフの名を使っている。1542年の徴税台帳から、ヴィルンスドルフ家はジーガーラントの他の部分でも土地領主となっていることが判る。移住者は土地領主になれなかったので、これはヴィルンスドルフ家移民説と矛盾する[20]。 ヴィルンスドルフ家は、13世紀になるまでヴィルンスドルフの城を所有していた。この城からは、ヘッケンバッハ川上流の谷全体が一望できた。城山の基礎壁上に建つ現在の教会周辺の測量や現在判っている堀の縄張りから、この城砦の敷地は約 1.2 ha であったと推定されている。1233年の前半、コンラート・フォン・マールブルクは異端裁判で、異端の罪があったとしてヴィルンスドルフ城と集落を完全に破壊させた。18世紀の絵図やそこに描かれた小さな教会によれば、これらは火災前に建てられており、1233年の破壊を免れたものである。1913年にかつての城跡に建設された福音主義教会の近くで、1968年と1969年にヴィルンスドルフ町と福音主義教会組織が参加して発掘調査が行われた。これにより城の歴史に関するヒントが発見された[21]。ブルク通りやコルベ通りの他に、「イム・グラーベン」(直訳すると「堀の中」)といった農地名がかつての城砦の規模をしのばせる。1950年代まで城の堀はその一部が遺されていた。1865年には壁の遺構が見られたが、1890年代に取り壊された。現在は、マインツァー通り 14番地の家の裏手に城の堀の跡が遺っているだけである。 城砦の破壊後、ヴィルンスドルフ家はアイゼルンやレトゲンへ向かう道の途中、アステンベルクの斜面に新しい居館を建設した。ヴィルンスドルフ家は、最後の後継者が亡くなるまでここに住んだ。1566年にはすでに40の農場から形成されていたヴィルンスドルフはかなり大きな村の1つとなっていた[22]。 1311年に、おそらくヴィルンスドルフ領主家の一員であるフィリップス・フォン・ヴィルンスドルフが寄進して教会が建立され、1444年にヴィルンスドルフで最初の司祭が記録されている。ヴィルンスドルフはこの頃まだ固有の教会区ではなく、教会区が設けられるのはもっと後のことであった。1328年3月4日の文書は、レトゲンを教区教会の所在地として記している。 ヴィルンスドルフ家の影響力とその終焉1298年に最初の記録が遺るカルトアイヒェの麓での銀採掘に基づく財産やヘッセン貴族との緊密な関係、ジーガーラント北部の広い所領などがヴィルンスドルフ家の影響力の基盤であった。この家門は、フェルンドルフ、ヴィルンスドルフ、レトゲン、ハイガー、フローンハウゼン、ドレッセルンドルフ、ブールバッハ、ノインキルヒェンの教会の守護権を有していた。1333年までヴィルンスドルフは、ナッサウ伯の独立した隣人であった。しかし、1339年12月7日の文書ではヴィルンスドルフの4兄弟は、ナッサウ伯ハインリヒを「我が主」と呼んでいる。ヴィルンスドルフ家の影響力はこの頃すでに大きく損なわれており、ナッサウ家が強大になっていた[23]。 1340年にヴィルンスドルフ家は、ナッサウのレーエン家臣となった。多くの後継者の間で遺産分配が繰り返され、その一部は郷土を去り、所領は徐々に細分化されていった。土地や財産は他国の手に落ちていったが、ヴィルンスドルフ家はこれを阻む財力を持っていなかった。収入は大幅に減少し、しばしばかなりの額の借金をした。1340年以後の多くの文書が、借金返済のために所領を売却したことを証明している。ヴィルンスドルフ騎士家の影響力はこうして失われた。困難な財政状況のためにこの騎士家はナッサウ伯に対して、戦闘時には参戦すること、わずかな相続財産を引き渡すこと、忠誠を誓うことといった義務を負うこととなった[24]。1626年、ユンカーのヨハン・フォン・ヴィルンスドルフが亡くなったことで最後の後継者が失われ、ヴィルンスドルフ家は断絶した[25]。 宗教改革と信仰の変遷1530年、ジーガーラントで宗教改革が効果を現し始めた。1521年にヴォルムスでルターの説教を聴いたナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム(富裕伯)がこれを推進した。ヴィルンスドルフでは最初ルター派が信仰されたが、後に改革派の教義に帰依した。最初の牧師はハインリヒ・ナウラートであった。彼は1539年に亡くなった。2代目の牧師の死後、レトゲンの牧師がヴィルンスドルフに移り、両教区は統合された。この統合は、17世紀の初めから中頃には解消されていた。1595年になる少し前、ヴィルガースドルフがハイガーからヴィルンスドルフに教区変更され、この年にヴィルガースドルフの子供が初めてヴィルンスドルフで洗礼を受けた。1626年にヴィルンスドルフは再びカトリック化された。福音主義の牧師はナッサウ=ジーゲン伯ヨハンの命令により、その職を奪われた。1632年から1651年まで信仰は何度も入れ替わった。ヴィルンスドルフとレトゲンの教区は再び統合された。福音主義の教区はレトゲン=ヴィルンスドルフ二重教区、カトリック教会はヴィルンスドルフ=レトゲン教区となった。その後も、カトリックと福音主義の教区間で軋轢が繰り返され、落ち着かない年が続いた。紛争は尾を引き、頻繁に、時にはわずか数ヶ月で聖職者が変わることも両宗派ともに珍しいことではなかった[26]。 1711年にナッサウ=ジーゲン侯ヒアツィントは再び福音主義の臣下を抑圧するための法律を承認した。福音主義者には罰金や高額の税が課され、福音主義の教師や牧師に対して辞任要求がなされた。1712年6月9日に人々は皇帝に苦情を訴え、1713年初めにヒアツィントに対して警告が発せられた。1720年には、ヒアツィントは皇帝カール6世によって完全に遠ざけられ、福音主義者に対する抑圧は解消された。ヒアツィントは1年後に居所をスペインに移した。彼は、1724年にこの地でナッサウ侯領政府に対して宗教比率を「以前の状態に」戻すよう命令を発した。福音主義の教師が追放され、福音主義信者は新しいカトリック教師に対しても報酬の支払いを強いられた。これにより当時の宗教比率が判明している: ヴィルンスドルフでは福音主義 33戸、カトリック 14戸、ヴィルガースドルフでは福音主義 32戸、カトリック 5戸であった。レトゲン教区の比率もこれと同じような比率であったと思われる。改革派のナッサウ=オラニエ侯ヴィルヘルム4世は、1742年に3つに分割されていたジーガーラントを再統合し、臣下の信仰を決定する権限を行使したが、厳格な運用を強いることはなかった。しかし、今度はカトリック信者が抑圧感を感じていた。1750年から1800年までの間にカトリックの司祭は15回交替している。 境界の制定と境界争いオットー1世(1290年没)の死後、3人の息子たちは1301年にジーガーラントを分割し、ナッサウ=ハダマール家、ナッサウ=ディレンブルク家、ナッサウ=ジーゲン家という分家が成立した。これにより、ヴィルンスドルフと隣のハイガーとの間にカルトアイヒェを通って初めて国境が引かれた。ヨハン6世の5人の息子たちは1606年にジーガーラントを分割し、ディーツ系、ハダマール系、バイルシュタイン系、ディレンブルク系、ジーゲン系の5家が成立した。さらなる分割によりヨハン8世は、アムト・ネトフェンと、レトゲンおよびヴィルンスドルフ教区を得、さらに1623年1月26日にカーン、ビュルバッハ、フォルンスベルク、ヴァイデナウ、アイザーフェルトの集落を追加取得した。この分割部分から後に「ヨハンラント」という呼称が生じた[27]。 この地方が分割され境界が確定すると、その後、南のナッサウ=ジーゲン領と、これに隣接するナッサウ=ディレンブルク家およびザイン家の二重支配下にある自由地との間の精確な国境線を巡って紛争が起こった。1579年にナッサウ=ディレンブルク家およびザイン家によって策定された自由地の国境では、ヴィルンスドルフ方面ではヴィーベルハウゼン、ヴァイセンベルク、レールスベルクを国境地点としている。1597年、ヴィルデバッハを国境線とし、アムト・ジーゲンはナッサウ=ジーゲンに属すとする国境を、ナッサウ=ディレンブルク/ザイン側は承認しなかった。1610年にナッサウ=ジーゲンによって、ヴィルデバッハ川に沿いエルカースベルク西の高地を国境線とする国境策定が再度行われた。これによりオーバーヴィルデンは、ミッテルヴィルデンおよびウンターヴィルデンから切り離された。中間の国境を採るジーゲンの妥協案は受け容れられなかった。1579年の国境調査に基づいて確定された国境の根拠は、ヴィルデンベルクとエルカースベルクにおける家畜の放牧は、ヴィルデン住民の古くからの権利であったということである。1622年の最後の国境調査によれば、国境はプファンネンベルク、リンスドルフ高地に続く山並み(現在のラウシェ)、ヴィルデナー高地、ヘルシュベルク、ヴァイセンベルクに続くロートシャイト(ラッツェンシャイト)を通る。この国境線は、この地域ではヴィルデンとリンスドルフもしくはヴィルンスドルフとの間に国境があることになる。 18世紀初め、ジーガーラントは飢饉と貧困にあえいでいた。ヴィルヘルム・ヒアツィントは、父親よりも多くの、それどころか侯家の収入よりも多くの金を発行した。住民は高い税金を調達することができなかった。金の問題が圧倒的になると、1703年にヴィルンスドルフとヴィルガースドルフはフランクフルトの2人の銀行家ヨハン・マルティン・ド・ローンとヨハン・ヴォルフガング・シェーネマンから借金をした。1755年1月30日、オラニエ公子ヴィルヘルム5世の時代にやっとヴィルンスドルフとヴィルガースドルフは借金から解放された。 1624年にヴィルンスドルフの教会が古い城の基礎壁上に拡張された。1700年から1701年に老朽化していた教会塔が取り壊され、新しい塔に建て替えられた。これ以後、ヴィルンスドルフの教会に時計が取り付けられていたことが証明されている。同時に教会が修復された。レトゲンでは1779年から1781年に洗礼者聖ヨハネ教会が建設され、その7年後にはカトリック部分が拡張された、ヴィルンスドルフでも新しい教会堂を建てる努力がなされた。1789年5月22日から古い教会の解体が行われ、その後2年間かけて新しい、共同で使用する教会が建設された。この教会は1791年9月4日に完成した。 ヴィルンスドルフは2本の大きな街道の分岐点に面しており、国境に向かってさらに急な勾配を克服するために、輸送業者や旅人の宿屋や厩舎の需要が増していった。この立地条件は、旅館経営者、鍛冶屋、車大工にビジネスチャンスをもたらした。1800年頃には、この集落にブルワリーが1軒あったが、その後1世紀の間にすべての宿屋が自家製ビールを供するようになっていた。1777年から1780年までの間に集落の街道は、カルトアイヒェでの玄武岩採掘のために大きく拡充された[28]。現在では玄武岩は採掘されていない。 カルトアイヒェの戦いとプロイセン対仏大同盟戦争では、1796年7月4日にフランス軍とオーストリア軍との間で「カルトアイヒェの戦い」が行われた。オーストリア軍の2日前にレトゲンに退却したフランス軍はディレンブルク方面へ進軍するよう命令を受けた。ヴィルンスドルフやほかのカルトアイヒェ沿いの集落は、軍に糧秣を徴発されるなど多大な損害を被った。カルトアイヒェの戦い後住民たちは何百人もの死者を埋葬し、負傷者を看護し、兵士による略奪に苦しんだ。この戦いではジュールダンが率いるフランス軍が勝利した。1806年、ヴィルンスドルフは他のジーガーラントともにベルク大公国の一部となった。いわゆるフランス統治時代にもたらされたのは物価高などのネガティブな影響だけではなかった。商取引の自由が導入され、賦役が免除された。ヴィルンスドルフでは、レトゲンおよびヴィルンスドルフ教会区のための行政機関マイアー・ヴィルンスドルフが設けられた。これは、後のビュルガーマステライ(町長管区)の先駆であった。 1813年からフランスに対するドイツ抵抗軍の多くの軍隊がこの町を通っていった。その宿営や食料提供はヴィルンスドルフ住民にとって再び大きな負担となった。ウィーン会議により1815年5月にヴィルンスドルフと残りのジーガーラントはプロイセン王国に分配されたが、しばらくすると他のいくつかの村落とともにナッサウ公国に移された。しかしジーガーラントの人々の尽力によって、この地域は1816年10月19日にプロイセンに返還された。1817年6月1日、ヴィルンスドルフはアルンスベルク県に編入された[29]。 1816年に、ナッサウ公国との境界となっていたカルトアイヒェの麓に税関が設けられた。ヴィルンスドルフには1835年までプロイセンのナッサウ国境中央税関が置かれていた。この中央税関には5つの第1種支局(ブールバッハ、ラースフェ、ハレンベルク、メーデバッハ、ギールスハーゲン)と17の第2種支局が属していた。第2種支局のうち8つがジーガーラントに設けられていた(ヴィーダーシュタイン、リッペ、オーバードレッセルンドルフ、ホルツハウゼン、ヴュルゲンドルフ、ヴィルガースドルフ、ゲルンスドルフ、イルムガルトアイイヒェン)。新設されたジーゲン郡には、アイゼルン、オーバースドルフ、リンスドルフ、ヴィルガースドルフ、ヴィルンスドルフ、ニーダーディールフェン、オーバーディールフェンの7つの集落を含むビュルガーマステライ・ヴィルンスドルフ (ドイツ語: Bürgermeisterei) が含まれた。プロイセンのヴェストファーレン州地方自治体法に基づき、1841年にビュルガーマイステライはアムトに改組された。1844年、ビュルガーマステライ・ヴィルンスドルフに替えて、アムト・ヴィルンスドルフが自治体連合として成立した[30][31]。1895年、それまでアムト・ブールバッハに属していたヴィルデンが、アムト・ヴィルンスドルフに編入された[32]。 トルプバッハのヨハン・ハインリヒ・ヴァイスゲルバーは1829年にライン川沿いのデュッセルタールから還ってきた。彼はその地でキリスト教復興運動のグループと交際していた。翌年から彼は周辺地域で、従ってヴィルンスドルフでも、「キリスト教の時間」を開催して、村々で次第に興奮を呼び起こし、1834年には意見の違いからジーガーラントにおける共同体の分裂を招いた。ヴァイスゲルバーはレトゲン=ヴィルンスドルフ教会区で特に人気で、アイゼルンやリンスドルフで定期的に集会を開いた。しかし、残りの住民や教会の代表者はこれを良く思わなかった。このためヴァイスゲルバーは1854年に活動を停止し、集会法の導入後になってやっと活動を再開した。1900年からこの教会区の各集落は、教会の集会所でのみ集会を開くこととした。 19世紀以降の発展ヴィルンスドルフは19世紀に大きく発展した。特に北から南に向かう本通り沿いに続々と新しい建物が建てられていった。ヴィルンスドルフの鉱業は、鉱業で有名なジーガーラントではまだ重要でなかったため、大部分の住民は農業や職人仕事で生活していた。1813年にヴィルンスドルフに住む鉱山労働者はわずか8人であった。1/3以上 (38 %) の世帯が農業、16 % が手工業で生計を立てていた[33]。2つの司祭館や学校の他に大きな建物は存在しなかった。こうした村の風景は、1889年から1891年にネオロマネスク様式のカトリック教会が建設されたことで変化した[34]。この教会の塔は現在も建っている。しかし、本堂は老朽化のため、1970年代に解体された。また、藁葺き屋根からスレート屋根への葺き替えも町の光景に変化をもたらした。これは、藁葺き屋根は火災の危険性が高いためであった。1820年代には65軒が藁葺きでスレート葺きは8軒だけであったが、1888年には138軒中78軒がスレート葺きとなった。1940年代に最後の藁葺き屋根が姿を消した。 1874年に、ヴィルンスドルフのマインツァー通り2番地の建物に郵便局が設けられた。それ以前の郵便は、馬車で配達されていた。ヴィルンスドルフにおける工業化は、初めは極めてゆっくりと導入されていった。大きな鉄や金属の精錬所は、ヴィルンスドルフのわずかな鉄鉱石産出量では採算が合わず、無駄であった。1890年代に計画された鉄道建設は実現しなかった。1870年代にフィッシュバッハミューレにボイラーが設けられた。19世紀には、医療の提供が町の問題であるとされた。1870年にリュールケン医師によってこの町で最初の病院が設立された。1805年から1812年までに、約500人の住民のうち78人が亡くなったが、1905年から1912年には約900人のうち62人の死亡に減少した。ヴィルンスドルフに薬局が開業したのも比較的遅かった。1886年にネトフェン出身のオスカー・ヤンセンがこの町で薬局を開業した。 アムト・ヴィルンスドルフの鉱業は19世紀に大きく成長した。鉄の溶鉱炉がアイゼルンやヴィルデン近郊に設けられた。アイゼンハルター・ティーフバウやアイゼルンのアイゼルナー・ウニオーンといった小さな鉱山から、時代とともに接続した鉱山が形成されていった。現在のヴィルンスドルフ町内には約20の大きな鉱山があり、このうち8つは工業化された坑内採掘で稼働していた: オーベルスドルフとアイゼンとの間にあるプリンツ・フリードリヒ鉱山(1848年 - 1903年)およびジルバークヴェレ鉱山(1874年 - 1911年)、ニーダーディールフェン近郊にあり約827,000トンの鉄鉱石を産出したグリムベルク鉱山(1794年 - 1910年)、ヴィルガースドルフ近郊のホフヌング鉱山(1883年 - 1913年)およびヴィクトーリア鉱山(1883年 - 1912年)、ヴィルンスドルフの南に位置するマリー鉱山(1867年 - 1918年)、ヴィルデン近郊のランデスクローネ鉱山(1801年 - 1918年)とバウテンベルク鉱山。これらのうち、最大で最もよく知られていたのがウンターヴィルデン近郊バウテンベルクという山のバウテンベルク鉱山であった。これは1461年に初めて開かれ、1942年に現在の町内では最後に閉山した鉱山である。ここからは、場所によっては 1025 m に達する深さから28億6,900万トンの鉄鉱石が産出し、時にはジーガーラントの産出量統計で9位にランキングされた。1957年、アムト・ヴィルンスドルフ地域内で最後にアイゼルンのアマイゼ鉱山が閉山した。 1836年以後関税の徴収が廃止され、税関の建物が空き家となった。ヴィルンスドルフの住民はこれを別の目的に転用した。この建物を教会に改築し、カトリックと福音主義との共用教会とする提案は、特にカトリックの司祭に支持された。1841年9月にカトリック教会も福音主義教会もこの建物の所有を主張した。この建物がどちらの教団に「よりふさわしいか」という意見の対立は何年も続いた。1852年4月29日、共用状態は解消された。カトリック教会が中央税関の建物を、福音主義教会がそれ以前の教会と学校を所有することとなった。1852年11月11日に税関の建物のカトリック教会への改築が完成した。福音主義教会も良好な状態となるよう改築がなされ、1911年から1913年に教会が新築されるまで使用された。1854年にヴィルンスドルフで最初のオルガンが設けられた。 1880年代の終わり頃、福音主義のヴィルンスドルフ教会区とレトゲン教会区との連合解消が検討された。ヴィルンスドルフとヴィルガースドルフの教会組織は、信者数が少なく、独立した教会区を形成することはできなかった。このため、1892年7月1日に、オーバーヴィルデン、ミッテルヴィルデン、ウンターヴィルデンを教区に含めでヴィルンスドルフは独自の牧師を得て、人的連合は解消された。 ヴィルンスドルフの地域内には、大きな鉱山はなかった。マリー鉱山は1867年から1918年まで稼働していた。この坑道はカルトアイヒェの南斜面にあり、130 m までの深さから鉛、亜鉛、銅の鉱石を産出した。その近くに、1890年頃までジーガーラント全域の石材を切り出した採石場がある。また、1800年以前に設けられた古いが、小さいレーヴェンシュテルン鉱山がマリー鉱山に付属していた。1853年から1866年までの間に266トンの鉛鉱石、31トンの亜鉛鉱石を産出したブルーノ鉱山は2本の坑道で開発された。1957年にエルツベルクバウ・ジーガーラントAGはカルトアイヒェの斜面で深さ 800 m に達する鉱脈の試掘を行った。しかしこの採掘は採算性が取れないものであった[35][36]。 1910年に水道が家の前の泉に替わって用いられるようになった。ヘッケンバッハ上流の谷に水の採取場と高架水槽が設けられた。水量不足のため、1937年に別の水源から新しい水道が造られた。1919年にガソリン駆動式モーターに替えて電子モーターがミルンスドルフ水車に取り付けられた。1902年に設立されたジーガーラント発電所によって電化された。1925年から電話網が設けられ、フランクフルト・アム・マインからカルトアイヒェ、ヴィルンスドルフ、ジーゲンを経由してドルトムントまでのケーブルが敷設された。同じ年にアイゼルンを経由してジーゲンまでのバス路線も開通した。これらの革新は、第二次世界大戦や世界恐慌の困難な時代にこの村を発展させた。1931年までに、高い失業率のために畑や庭での窃盗が起こった。資材不足を緩和するために、ヴィルンスドルフでも冬期貧困救済事業が興った。 第一次世界大戦では、37人のヴィルンスドルフ住民が帰還しなかった。1931年9月20日に戦没者を記念して壁で囲まれ球体と十字架があしらわれた塔が建立された[37]。 1939年の第二次世界大戦勃発後、共同体生活は機能停止に陥った。ヴィルンスドルフから75人の予備兵が直ちに召集された。ハーフェル地方からの衛生部隊が3週間にわたってヴィルンスドルフに宿営し、1939年11月8日から1940年5月11日まで、バイエルンの第27砲兵連隊第8砲兵中隊の170人の兵士と140頭の馬が宿営した。1943年から1944年までにルール地方から111家族が、ジーゲンから120家族がヴィルンスドルフに疎開し、住み着いた。1945年にヴィルンスドルフ、ヴィルガースドルフ、カルトアイヒェの間の地区が爆撃されたが、損害はなかった。その後、低空飛行による攻撃がヴィルンスドルフを襲い、多くの家屋が焼かれた。3月30日から31日にかけて、アメリカ軍がヴィルンスドルフに進軍してきた。戦争では、64人のヴィルンスドルフ住民が死亡し、28人が行方不明となった。1955年に戦没者記念碑は第二次世界大戦の戦没者にも拡張された[37]。 1946年から1947年までハウベルクで最後の種蒔きが行われ、1958年に最後の牧畜がなされた[38]。何世紀にもわたって共同体生活を支えてきた農業は1950年代末に消滅した。現在ではわずかな大農家だけが周辺で農業を営んでおり、大部分の住民は工業や商業に就いている。 第二次世界大戦後、この集落は急速に成長した。1951年にリンスドルフ行きの乗合バスが営業を開始し、1952年にゴミの収集が始まり、1955年から1960年までの間に水道網が根本的に刷新された。1958年/1959年にヘッケンバッハ上流の谷の井戸の新設やカルトアイヒェの高架水槽の建設が始まった。1957年には、ザウアーラント線とも呼ばれるアウトバーン 45号線の計画が開始された。その10年後にハイガー/ブールバッハ・インターチェンジとジーゲン=アイゼルン/インターチェンジとの間の区間が完成し、ヴィルンスドルフはヴィルンスドルフ・インターチェンジでこの道路と結ばれた。アウトバーンの建設もこの町の急速な発展に寄与した。多くの新興住宅地が開発され、建設された。1950年 イン・デア・シュトルト、1963年 ツーム・エーレンマール、1965年 イン・デア・ノイヴィース、1966年 アム・イェーガーアッカーおよびアム・クリッツェルガルテンといった具合である[39]。 1818年から1939年のヴィルンスドルフの宗教状況
ヴィルンスドルフでは、19世紀には住民の多くが福音主義であったが、1926年にプロテスタントが少数派になった。現在はヴィルンスドルフ集落ではカトリックが多いが、町境周辺の地域やいくつかの集落では福音主義が多数を占める。特にヴィルデンは長らくアムト・ブールバッハに属しており、現在でも福音主義が多い自由地の1つであった。 新しい統合自治体ヴィルンスドルフ1969年1月1日に「ジーゲン郡の新設に関する法律」に基づき、それまでアムト・ネトフェンに属していたアンツハウゼン、フランマースバッハ、ゲルンスドルフ、ルーダースドルフと、アムト・ヴィルンスドルフに属していたニーダーディールフェン、オーバーディールフェン、オーベルスドルフ、リンスドルフ、ヴィルデン、ヴィルガースドルフ、ヴィルンスドルフが合併し、アムトに属さない新たな町ヴィルンスドルフが形成された。アムトは廃止された。アムト・ヴィルンスドルフの権限の継承者は新たな自治体ヴィルンスドルフであった[42]。アイゼルンはこれ以前の1966年7月1日にすでにアムト・ヴィルンスドルフから脱退し、他の自治体とともに新たなアイザーフェルト市を形成していた[43]。この街は1975年1月1日にジーゲンに合併した。 1971年から1978年に約 60 ha の土地が造成された。1971年からのレーンシャイト工業地域の開発によって約2000人分の新たな雇用が創出された[44]。新しい住宅地も開発された: 1974年のホーエロート地区と1982年のアウフ・デム・ベルゲである[39]。1976年に町は新しい町役場を建設して移転した。3年後、旧町役場庁舎は郵便局となった。1980年までにヴィルンスドルフは2倍の広さに拡大した。1981年、新旧町役場の間の新しいショッピングセンターに最初の店がオープンした。4年後、ここで、最初の週の市が開催された。1984年、連邦道 B54号線の2つの区間で拡張工事が行われた。これによって、ルーダースドルファー通りとアインジーデル通りとの交差点が新たに設けられた。かつてのクライの工場は1985年に祝祭ホールに改築された。この増築部分に町役場 II と図書館が入居している。 21世紀になっても多くの建築の改変がなされている。消防団は新たな消防署に移転した。増築部分には2003年/2004年に警察の派出所が設けられた。この派出所はノインキルヒェンからヴィルンスドルフに移転したもので、これによりアウトバーンの近くに位置することとなった。1997年/1998年に衣料品チェーンのブルーノ・クライネは新たな支店をヴィルンスドルフに開店した。2003年には新しい工業地域としてヴィルデン北・レーンシャイト IV 工業地域がオープンした。その2年後に、1979年から郵便局が入居していた旧町役場の拡張部分は、町の中心部にあるショッピングセンター拡張のための敷地を確保するために、周辺の空き家となった建物と一緒に解体された。ここにコントラ=マルクト(現在は レーヴェ)の拡張部分と、オフィス、住居、診療所の複合体からなる新しい建物が建設された。この建物の間に駐車場が設けられている。 住民人口推移自治体成立以後のヴィルンスドルフの公式人口[45]
宗教教会堂ヴィルンスドルフ町内には10の教会堂と1つの礼拝堂がある。礼拝堂は福音主義のものである。10の教会のうち4つが福音主義、5つがカトリック、1つが共用の教会である。アンツハウゼンの礼拝堂が最も古い建物で、ヴィルデンの教会が最も新しい。ヴィルンスドルフの中心地区には2つの教会堂がある。
行政ヴィルンスドルフの町役場は現在の集落の中心に位置している。その北側はショッピングセンターの建物に囲まれており、それは西側部分にまで及ぶ。南東には祝祭ホールとヴィルンスドルフ博物館がある。大規模な地域再編前の1964年に行われた町役場の拡張工事後もアムト・ヴィルンスドルフの行政は2つの古い建物で執務されており、さらなる拡張工事が必要であった。1969年の地域再編と、11地区からなるヴィルンスドルフ町の形成により、町役場のスペースが狭く、必要な機能を果たせなくなった。このため町は計画を策定した。1975年末、景気後退の徴候により、連邦や州からの 80 % の補助金で新しい町役場を建設するチャンスが訪れた。建設は1976年に始まり、11か月の工期を擁した[55]。 町役場ヴィルンスドルフの町議会は、2014年の町議会選挙後 34議席で構成されている[56]。 首長1997年まで、ヴィルンスドルフには専任の町長の替わりにゲマインデディレクター (ドイツ語: Gemeindedirektor、事務総長) がいた。この役職は、行政の長であり、自治体のあらゆる法的事項・運営事項の代表者であった。この職にあたる者は、その職責にふさわしい専門知識を有し、業務を遂行するに十分な経験を有していなければならなかった。この役職者は、町議会によって8年ごとに選出されるが、その人物自身が町議会議員である必要はなかった。 これに対して当時の町長 (ドイツ語: Bürgermeister) は、町議会議員の中から選出され、議員としての任期である5年ごとに改選された。町長は町議会議員でなければならなかった。他の町会議員と同様に町長は兼任であり、議員業務の他に通常の仕事を有しているのが一般的であった。町長としての業務は、町議会および主要委員会の議長と、議会の政治的式典があった。 1994年にノルトライン=ヴェストファーレン州の立法機関によって決定された地方自治体組織の変更に関する法律によって、それまでの2頭体制は遅くとも1999年の市町村議会選挙までに解消すること、市町村長の機能は住民の直接選挙で選出される1人の人物(専任市町村長)が担うこととなった。ヴィルンスドルフでは1997年にこれが実施された。
紋章紋章は、1937年8月17日に認可されたもので、1969年まではアムト・ヴィルンスドルフの紋章であった。自治体再編の際に合併後の新たなヴィルンスドルフの紋章として受け容れられた。旧ヴィルンスドルフ町の紋章は1939年7月31日に認可されたが、1969年に公的な使用権が失われた[58]。 図柄: 上下二分割。上部は青地で7枚の金色(黄色)の小四角形がちりばめられている。そこに赤い爪と舌で威嚇する金の獅子が中央線から半身を現している。下部はさらに銀地(白地)とセーブル (紋章学)黒地に上下二分割され、色が反転した柱が2本描かれている。 町の紋章の上部はナッサウの獅子である。青と金はナッサウ家の色を象徴している、下部はコルベ騎士家の紋章から採られた[59]。 姉妹自治体
文化と見所博物館と文化財
建築
文化財ヴィルンスドルフ町の文化財リストには61件が登録されている。このうち57件が建築文化財、3件が地質文化財、1件が可動文化財である。39件が個人所有、9件が教会の所有、10件が町の所有、2件が州の所有、1件が連邦所有である[72]。 音楽と演劇1976年、ヴィルンスドルフに青年音楽学校が設けられた。ここには12種類の様々な楽器や歌唱を学ぶ約 350人の学生が在籍している。11の地区内には、8つの CVJM 金管アンサンブルやその他の音楽クラブ、合唱団、歌唱クラブがある。 ヴィルンスドルフは、ギムナジウムの講堂やフォーラム。ヴィルンスドルフ祝祭ホール、いくつかの公民館で、町、学校、あるいはその他の機関による音楽や演劇の公演が行われている。 2008年10月から演劇クラブ「ディー・ライエン」e.V. がヴィルンスドルフを本拠地としている。 スポーツ11地区すべてに運動場がある。2008年からすべて改修がなされ、人工芝と小さな遊戯広場が設けられた。体育館は、フランマースバッハおよびゲルンスドルフ以外を除くすべての地区にある。ボルツ場はすべての地区に用意されている。さらにバレーボールコート 3か所、テニスクラブ 2か所、乗馬場 2か所がある。1980年に建設されたヴィルンスドルフのヘーヴェルトヒェン・レジャーパークはサウナやバレーボール、テニス、スカッシュのコートを備えたフィットネス・センターである。歩行者専用橋で州道 L722号線を越えてギムナジウムとつながっている運動場は1977年から設けられており[73]、2007年に改修された。ヴィルンスドルフにはヴィルンスドルフ堰近くのカルトアイヒェにもう1つ運動場がある。 ヴィルンスドルフ町スポーツクラブ連合 (GSV) には40以上のクラブが加盟しており、延べ700人の会員が所属している。ほぼ各地区に固有のスポーツクラブがあり、いくつかは地区を超えて活動している。最も有名なのが TuS ヴィルンスドルフ=ヴィルガースドルフである。このクラブは、1910年に創設された VfB ヴィルンスドルフと TuS ヴィルガースドルフが、1970年6月20日に合併して成立した。VfBヴィルンスドルフと同様に、他の地区にも第一次世界大戦前からスポーツ・体操クラブが存在していた。たとえば、フランマースバッハ、アンツハウゼン、ヴィルデンなどである[74]。 年中行事祝祭ホール、ヴィルンスドルフ博物館、ルーダースドルフの郷土館では、定期的に、展示会、即売会、(映画)上演会が開催されている。たとえば、鉱業・鉱物即売会や模型工作即売会などである。ヴィルンスドルフ・ギムナジウムの講堂やフォーラムでは、演奏会や演劇公演が行われる。ヴィルンスドルフでは、1985年3月から水曜日に週の市が開かれている。ヴィルンスドルフ自然・農家市、市場祭、ノミの市が定期的に開催される。夏にはヴィルンスドルフのブルーノ・クライネ駐車場で教会祭が行われている。1993年から毎年9月にヴィルデンの運動場の高台でヴィルンスドルフのドラゴン祭が開かれる。2009年には約3,000人がこの祭に訪れた[72]。5月1日にはヴィルデン釣りクラブがランデスクローナー池に招待する。キリスト昇天祭には、VfB ヴィルデンがストリートサッカー大会を開催する。 ヴィルンスドルフの祝祭ホールは、当時のクライ社の建て替えに基づき、1985年に建設された。ホールは 540 m2、多目的スペースは 109 m2 の広さがある。700席まで設置可能なホールにはステージが設けられている[75][76]。2009年には、113のイベントが祝祭ホールで開催された[72]。すべての地区に、イベントや祝祭に用いることができる公民館または多目的ホールがある。 経済と社会資本工業1990年代にアウトバーンが建設されて以後、ヴィルンスドルフの職場数は約2000人分増え[44]、4000人ほどになった。この町の工業用地の面積は約 172 ha である。最大のレーンシャイト工業地区は、ヴィルンスドルフとリンスドルフとの間のヘッケンバッハタールにあり、インターチェンジでアウトバーン 45号線に接続している。ヘッケンバッハ川はこのために流路を変更された。 工業地区ヴィルンスドルフには以下の工業地区がある[77]:
企業約100人を雇用するヴィルンスドルフの町で最大の雇用主ジーゲニア=アウビの本社はニーダーディールフェンにある[78]。 交通ヴィルンスドルフは地元のインターチェンジでアウトバーン 45号線(ザウアーラント線)に接続している。ヴィルンスドルフが位置する区間は1967年に開通した。2005年9月にこれに隣接して、レーンシャイト VI / ヴィルデン北工業地区内に、ガソリンスタンド、ホテル、多くのレストランを含むアウトホーフ(特に長距離トラック用のパーキング、サービスエリア)がオープンした[79]。 ヴィルンスドルフは連邦道 B54号線沿いに位置している。この通りは、町域内を南から北西に走っており、オーベルスドルフの北側からこの町を離れる。1976年にコースが変更された。それまでこの通りは、ヴィルンスドルフからオーバーヴィルデンやギルスバッハを経由してブールバッハへ向かっていたが、ガムバッハ経由でリッペ方面へ向かうこととなった。ヴィルンスドルフ - ブールバッハ間は州道 L723号線となった。現行の B54号線は、カルトアイヒェを越え(旧 B277号線)、ヴュルゲンドルフの東をリッペ方面に向かう。1982年に、アルツハウゼンやルーダースドルフとヴィルンスドルフ地区との交通の便が良くなるよう、州道 L722号線のアルツホイザー・ミューレまでの区間が拡充された[80]。L722号線も町内を貫いている。この道路沿いにヴィルデン、ヴィルンスドルフ、ルーダースドルフ、ゲルンスドルフの各地区がある。 公共近郊交通は、ヴェストファーレン南交通会社とルール=ジーク・バス交通(BRS) のバスが運行している。R12号線(ヴィルンスドルフ - ニーダーディールフェン - ジーゲン)、R13号線(ヴィルガースドルフ - ルーダースドルフ - ニーダーディールフェン - ジーゲン)、R15号線(ノインキルヒェン - ヴィルデン - ヴィルンスドルフ - リンスドルフ - アイゼルン - ジーゲン)がその主要路線である。さらにジーゲンからヴィルンスドルフへの夜行バスもある。 この町はルーダースドルフ駅を介して鉄道ディル線と結ばれている。ニーダーディールフェン駅は現在、旅客営業を行っていない。この路線は1915年に一般運行を開始した。1950年代までヴィルンスドルフは、ヴィルデン経由でフライエ・グルンダー鉄道と結ばれていた。この路線はウンターヴィルデンからザルヒェンドルフ (ノインキルヒェン) までを結んでいた。この路線は、元々オーバーヴィルデンやヴィルンスドルフを経由してヴィルガースドルフまで開通する予定であったが、ノイエ・ホフヌング鉱山の閉山により、ウンターヴェルデン以降の敷設はされなかった。 この町から約 12 km 南にジーガーラント空港があり、ヴィルンスドルフから連邦道 B54号線経由で行くことができる。 メディアこの地方の日刊紙は、ジーゲナー・ツァイトゥング、ヴェストファーレンポスト、ヴェストフェリシェ・ルントシャウである。これらの日刊紙の他に、ジーガーラントクーリエ、ジーガーレンダー・ヴォーヒェンアンツァイガー (SWA)、ヘラーターラー・ツァイトゥングといった新聞が刊行されている。ヘラーターラー・ツァイトゥングは、かつてはヴィルデンだけに配布されていた地方日刊紙であった。 1981年からヴィルンスドルフ町にケーブルテレビが設けられている[58]。放送(特にラジオ・ジーゲン)は、ノインキルヒェンに建つ送信塔から発信されている。ヴィルンスドルフは、ノルトライン=ヴェストファーレン州、ヘッセン州、ラインラント=プファルツ州の間に位置することから、地方局であるラジオ・ジーゲンの他に、ヘッセンからの WDR、hr、FFHのプログラムやラインラント=プファルツからの SWR、RPR1のプログラムも受信できる。2005年秋からヴィルンスドルフではブロードバンドインターネット網に接続できるようになった。 公共機関、社会機関ヴィルンスドルフ図書館は、祝祭ホール近くの町役場 II の隣に入居している。この図書館は、約16,500点のメディア、書籍、CD-ROM、CD、DVD を貸し出している。この他に7つの地区図書館が利用できる[81]。 「ハウス・ヘーヴェルトヒェン」は、町内に3つある老人ホームの1つである。この施設は、ヴィルンスドルフ近郊ディールフェン寄りにある。2001年に開所し、69人の入居・介護が可能である。運営は、ディアコニー・ジーゲンが行っている[82]。これよりも大きな老人ホームであるニーダーディールフェンの「ハウス・アン・デア・ヴァイス」は1991年に民間運営者によって建設され、83人が入居している[83]。3つめのホームが「ハウス・ゾンネ」で、オーベルスドルフ=レトゲンにある[84]。 ヴィルンスドルフには幼稚園が14園ある。ヴィルンスドルフ地区、ヴィルガースドルフ地区、ルーダースドルフ地区にはそれぞれ2園ずつある。5園がドイツ赤十字社、5園がカトリック教会、4園が福音主義教会の運営である[85]。 教育1542年にヴィルンスドルフの当時の学校長についての記録が遺されている。これはキリスト教の教義と結びついた純粋な教会の学校であった。1964年には「キルヒシュプールシューレ」(直訳すると「教会礼拝学校」)と名付けられた[86]。この古い学校は1852年に取り壊され、新しい建物に建て替えられた。この学校は、福音主義の学校として1853年11月25日に開校したが、すぐに小さすぎる状態となった。1900年8月24日に土地が購入され、新しい校舎が建設され、1903年12月3日に開校した。1853年に福音主義の学校となった後、カトリックの子供たちは税関の建物で授業を受けた。しかし、税関の部屋が必要条件を満たさなくなったため、1890年代に新しい学校建設運動が始まった。1902年に土地が取得できたが、建設が始まったのはその2年後になってからであった。1908年12月1日に新しい学校の運用が始まった。この学校も、早くも1920年代には手狭になった。1920年に生徒数が143人にまで増加し、新築・改築が必要となり、1928年に完成した。1939年4月18日にカトリック3クラス、福音主義2クラスの共同学校が開校した。戦時下で学校運営は困難を極め、1944年11月にとうとう完全に閉鎖せざるを得なくなった。1945年3月から散発的に授業が行われ、この年の8月27日に完全に学校運営が復活した。1947年に町立学校が廃止され、宗派による分離が再び行われた[87]。 1972年/73年にヴィルンスドルフのホーエロートで新しい本課程学校の建設が行われた。1968年の学校改革以後、既存の建物に余裕がなくなったためである。学生数の急速な増加や実科学校の開設にスペースが必要なり、早くも1974年にこの建物は拡張が必要となった。3年後に新しい校舎が建設され問題は解消された[88]。1990年代初めに本課程学校は移転し、空いたスペースに新たに設立されたギムナジウムが入居した。これ以後本課程学校は、ルーダースドルフ地区の新しい建物にある。 1974年9月1日、ヴィルンスドルフの実科学校は、ホーエン・ロートの当時の本課程学校内に開校した。この学校は1977年に隣の新校舎に移転した[88]。その後早くも1982年には拡張工事が行われた。実科学校は、1992年/93年の学年に、改築され、拡張されたニーダーディールフェンの旧本課程学校に移転した。2009年に学生食堂が建設され、完成した。現在ヴィルンスドルフ実科学校には約540人の生徒と26人の教師が在籍している。体育館の他に、アドルフ=ゼンガー=ハレという名の多目的ホールや近くの運動場が利用できる[89][90]。 1990年に創設されたヴィルンスドルフのギムナジウムは、約1,000人の学生と約70人の教員を有している[91]。 アンツハウゼン、ニーダーディールフェン、オーベルスドルフ、ルーダースドルフ、ヴィルデン、ヴィルガースドルフ、ヴィルンスドルフの各地区に基礎課程学校がある。ニーダーディールフェン、オーベルスドルフ、ヴィルンスドルフ、ヴィルデンは学校連合を形成している。ルーダースドルフには自由キリスト教会基礎課程学校があり、2009年現在241人の児童が在籍している[72]。 2012年2月9日にヴィルンスドルフ町は、ヴィルンスドルフの基礎課程教育状況の現状と将来について情報検討を行った。児童数減少のため、2012年/13年には7校で6人の教員が赴任しただけだった。いくつかの基礎課程学校閉校の可能性が報告された[92]。2月16日、100人以上の両親や児童が町役場前で閉校反対、全校存続を訴えた。彼らは、閉鎖の可能性が高いとされるアンツハウゼン、オーバースドルフ、ヴィルデンの住民約4,000人分の署名を町長のシュプラーに提出した[93]。3月1日、CDUとFDPが教育議会で7つの初等クラスすべてに賛同し、すべての学校存続を宣言した[94]。結論は、町長シュプラー名義でノルトライン=ヴェストファーレン州総理大臣ハンエローレ・クラフト宛てに送付された[95]。 2011年12月15日にヴィルンスドルフ町議会は、ゼンクンダールシューレ(中等教育を行う学校)の開設を決議した[96]。2012年2月2日にこの学校は教育省の認可を得た。しかしゼクンダールシューレの入学希望者が最小必要人数の75人に達しなかったため、同年2月28日にゼクンダールシューレの同年開校を断念したと町行政府は発表した。入学希望者は70名であった[97]。 人物ゆかりの人物
関連図書
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。 脚注出典
外部リンク |