ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー
ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー(フランス語: Victoire de Saxe-Cobourg-Kohary, 1822年2月14日 - 1857年12月10日)はザクセン=コーブルク=コハーリ家の公女で、フランス王族ヌムール公ルイ・シャルル・ドルレアン(フランス王ルイ・フィリップの次男)の妃。 ドイツ語名はヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ(Viktoria von Sachsen-Coburg-Saalfeld-Koháry)。 生涯ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子フェルディナントと妃のコハーリ・デ・チャーブラーグ・エ・シトニャ公女マリア・アントーニエの長女としてウィーンで生まれた。全名はヴィクトリア・フランツィスカ・アントーニア・ユリアーネ・ルイーゼ(ドイツ語: Viktoria Franziska Antonia Juliane Luise)。 母はコハーリ・デ・チャーブラーグ・エ・シトニャ公フェレンツ・ヨージェフの1人娘で公家の跡取りだった。祖父フィレンツ・ヨージェフが1826年に死んだ後、母はスロバキアとハンガリーの広大な地所を受け継いでいる。ポルトガル王フェルナンド2世は兄、イギリス女王ヴィクトリアとイギリス王配アルバートは、ともに従姉と従兄である。また、ベルギー王レオポルド2世とメキシコ皇后カルロータの兄妹ともいとこ同士である。 1840年4月27日、サン=クルーのサン=クルー城においてフランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公ルイ・シャルル・ドルレアンと結婚した。なお、1843年にはルイ・シャルルの妹クレマンティーヌとヴィクトリアの兄アウグスト公子が結婚し、初代ブルガリア王フェルディナントらをもうけている。 1848年の2月革命の後、オルレアン家はイングランドに亡命し落ち着いた。 ヌムール公爵夫妻は4人の子をもうけ、生涯未婚だった末子ブランシュ以外は子孫がいる。 1857年、クレアモント・ハウスで次女ブランシュを出産した約2週間後に亡くなり、ウェイブリッジのセント・チャールズ・ボッロメーオ礼拝堂に埋葬された。1979年、オルレアン家の歴史的な墓所であるドルーのサン=ルイ王室礼拝堂に改葬された。 子女ヴィクトワールはヌムール公爵との間に2男2女をもうけた。
系譜
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