ヴァンヂャケット
株式会社ヴァンヂャケット(VAN JACKET INC.)は、日本のアパレル企業。 1960年代から1970年代にかけて一世を風靡した。1950年代よりアメリカンカルチャーを取り入れ日本にアメリカントラディショナルスタイルを浸透させた。60年代には「アイビールック」や「みゆき族」など流行を作り、T.P.O. (Time Place Occasion)という言葉で、着こなしや時々のルール等、スタイル全般をイノベーションしメンズファッションとライフスタイルの文化を築いた。 概要石津謙介が大阪市南区で創業した企業である。ニュー・イングランド風のファッションを、アメリカ東海岸名門大学グループ「アイビーリーグ」にちなんで「アイビー」と呼んだが、このアイビー・ファッションをVANブランドとして打ち出し、急成長を遂げた。 アイビーは、1960年代に東京・みゆき通りに集まる流行に敏感な若者、総称して「みゆき族」の間にも流行した。 みゆき族の間では、ヴァンヂャケット社のブランド「VAN」の紙袋を持つことさえおしゃれであるとされ、「VAN」はその後、日本のファッションシーンの最先端を走り続けた。アイビーファッションの信望者の中では、神様的扱いのブランドであった。1970年代に至っても愛好者はいたようであり、また、1つのジャンルを形成していた。 青山に本社ビルを構え、企業内クラブとしてアメリカンフットボールのチーム「VANGUARDS」を持つなど、当時時代の最先端を行く企業として若者の間の人気は高かった。 1975年2月期の決算で452億円の売り上げを計上したのをピークに業績が急激に悪化。丸紅、三菱商事などの商社、東洋紡、鐘紡などの素材メーカーに人材、金融面での支援を仰いだが、オイルショックを背景にした不況、アパレル業界の競争激化、新しい客層をつかむことに失敗したことなどが重なり、1978年(昭和53年)4月6日、会社更生法を申請して事実上倒産。負債額は約500億円[1]。 沿革
歴史60年代50年代は紳士服を中心とし、スーツをメインとしたブランドだったが、60年代に入り、アメリカのアイビーへとシフトした。その象徴となるのが、1965年に発刊された「TAKE IVY」という写真集。総勢8名のスタッフが、アメリカの東海岸の8校からなる名門私立大学を総称したアイビーリーグ校へ行き、本場のアイビーリーガーを撮影し映画と本に収めた。 TAKE IVYに続き、アメリカの北東部のリゾート地をテーマにした「CAPE COD」や「DISCOVER AMERICA」などシーズン毎にテーマを設け、若者に良きアメリカを伝えていった。
70年代1970年には<どんな時、どんな場所でもどんな人にも語りかけるグローバルな服を多彩に創造していく>というキャッチコピーと共に企業ポリシーに「GLOBAL EYE」を掲げ、各国で撮影されたビジュアルが残されている。 1971年~72年の2年間に渡り展開されたキャンペーン「Come on Sportsman!」、73年「SPORTS COMMUNICATION」、74年「We Love Sports」と70年代前半は、スポーツにぶつかっていく男にスポットをあて、「週に一日はスポーツを!」という合言葉と共に<明るく、活発で健康的>というVANのイメージを強くアピールしたキャンペーンが開催された。 青山に本社を建て一帯をVAN TOWN青山と名付け、関連のブランドが点在していた。 丸紅と組み、あらゆる分野に進出、20以上の自社ブランドのほか、海外ブランドともライセンス契約を結び、インテリアショップ、花屋、劇場まで経営した[2]。1971年に98億円だった収益は1975年には425億円となったが、1976年に売り上げが落ち込み、1978年に倒産した。倒産を悼み、雑誌の『POPEYE』は、「VANが先生だった」と題したVANの特集号(1978年6月10日号)を出版、約22万部が売れた[2]。
80年代以降1988年「EVERLASTING TRADITIONAL COLLECTION」では、アイビーリーグ校を再訪し各校の風景が撮影され、1990年「NANTUCKET ISLAND」と改めて創業当時の良きアメリカを表現するテーマが掲げられた。 2008年にアメリカのファッション系ブログにVANの1965年の写真集『Take Ivy』が掲載され拡散されたことをきっかけに、2010年にブルックリンの出版社から英語版が刊行され、世界で5万部を販売した[3]。ラルフ・ローレンやJクルーなどの店頭に飾られ、ネオ・アイビー・スタイルとして雑誌などでも話題になった[3]。
VAN99HALL1972年9月9日オープン。ちょうどVANの絶頂期、「利益の還元」をうたい文句につくられた自主企画・自主運営の劇場。 当初は企業内の「講堂」の発想もあったが、宣伝部の中に専門の運営スタッフを置くことになり、自主企画・自主運営の道を歩き、短い期間ではあったが様々な文化的な実績を残すことになった。 石津謙介自身がホールの名前を命名、関連企業のアルフレックスの設計部が設計した。99席、入場料金が99円というのが当初のコンセプトであった。 VANファミリーショップかつて存在していた株式会社ベルソンジャパンが、株式会社ヴァンヂャケットのライセンス提供(タグの表記は「LICENSED BY KENT JAPAN INC.」)を受け、2001年12月より運営していたファミリー層向けのショップブランド。 一世を風靡していた当時は、価格が高くて手が届かないながらも憧れを抱き続けていた世代を狙って、ユニクロ並みの廉価な価格で、VANの定番商品のコピーや、そのテイストを残してデザインされた商品が提供されていた。 そのため、路面店は旗艦店である多の津店ほか数店のみで、基本的にはダイエー、イオン、イトーヨーカ堂などのGMS内のインショップ展開を中心に店舗数拡大を全国にて行っていた。 しかし、販売されていた商品のほとんどが、中国で生産され、適切な品質管理を行わなかったため、「安かろう悪かろう」の評判が広まってしまった。また、従業員教育も粗雑だったため、しだいに店舗ごとの売上高は減少していった。さらに、むやみな店舗数拡大が会社経営を圧迫し、2006年3月に、株式会社ベルソンジャパンは突然倒産した。そのため、全国の全49店舗は即日閉鎖に追い込まれた。 なお、ヴァンヂャケット公式サイトにおいて発表されたとおり、株式会社ベルソンジャパンは株式会社ヴァンヂャケットとライセンシー契約を結んでいただけであり、株式会社ヴァンヂャケットとは直接的な資本関係などはない[4]。 関連項目
脚注
外部リンク |