この項目では、帝政ロシア時代の詩人について説明しています。帝政ロシア-ソ連の物理学者で、「ロシア航空の父」と呼ばれるジュコーフスキーについては「ニコライ・ジュコーフスキー 」をご覧ください。
1820年のジュコーフスキー
ジュコーフスキーの肖像。1815年オレスト・キプレンスキー 画。1820年、初めて長編詩を出版するプーシキンを祝し、"To the victorious disciple from his vanquished tutor" と献辞を添えて、この有名な肖像を贈ったという。
ヴァシーリー・アンドレーヴィチ・ジュコーフスキー (ロシア語 : Васи́лий Андре́евич Жуко́вский ; Vasily Andreyevich Zhukovsky, 1783年 2月9日 (ユリウス暦 1月29日) – 1852年 4月24日 (ユリウス暦 4月12日) )は、ロシア ・ロマン主義 を代表する詩人。詩作よりもむしろ、原作以上と評される翻訳で名をなした。その自由闊達な翻訳方法は、二葉亭四迷 が「余が翻訳の標準」で称賛している。
来歴
トゥーラ 近郊のミシェンスコエ村に生まれた。父は地主貴族アファナシ・ブーニン(イヴァン・ブーニン の縁者)。母は使用人のサリファで、露土戦争 のトルコ人 捕虜だったが、のち洗礼を受け、エリザヴェータ・デメンティエヴァ・トゥルチャニノヴナという名で事実上ブーニン家に輿入れした。使用人との間に生まれた非嫡出子だったため、父の友人の下級貴族アンドレイ・グリゴリエヴィチ・ジュコーフスキーと養子縁組し、ジュコーフスキーの名を得た。とはいえ、一応ブーニン家に連なる者として、実父や家庭教師から相応の教育を受けた。1797年から1800年までモスクワ大学 貴族寄宿学校で学び、フリーメイソン の神秘思想やイギリスのセンチメンタリズム、ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラング に強い影響を受けた。雑誌「ヨーロッパ報知」主筆である卓越した文人カラムジン と親しくしていた。
1802年トマス・グレイ 作「墓畔の哀歌」の翻訳を「報知」に発表し、文名をあげた。今日では、これがロシア・ロマン主義の夜明けとされる。1808年カラムジンから「報知」の編集権を引き継ぎ、ロマン主義の主題や様式を探求した。ロマン派詩人の神秘性の発展に功績が認められる。自身の優れた詩作のほとんどを、姪にあたるマリア・プロターソヴァに贈っていたが、悲恋に終わる。1815年以降、古典主義に対抗し、詩的革新をめざす文学サークル、アルザマス会の一員として、ロマン主義の中心的詩人になった。
後半生は、教育者、芸術のパトロン としてロシア文化の発展に貢献した。1815年に皇太后マリア・フョードロヴナ の侍講を務め、以来、大公妃アレクサンドラ・フョードロヴナ や、1826年には皇太子 (のちのアレクサンドル2世 )の傅育官に任じられた。1860年代の自由主義的な社会改革は、ジュコーフスキーの先進的な皇太子教育によるとも言われる。宮廷での高位を活かし、ミハイル・レールモントフ やアレクサンドル・ゲルツェン 、タラス・シェフチェンコ ら自由思想の作家をしばしば政治的窮境から救った。1837年にプーシキン が死ぬと、その遺志を継ぎ、未発表作数編を含む著作の収集、出版準備、検閲回避に努めた。1830年代、1840年代を通してニコライ・ゴーゴリ などの才ある者を育成しており、ロマン主義運動の陰の立役者といえる。1841年に宮仕えを終えると、主としてドイツに住み、58歳にして、友人の画家ゲアハルト・ヴィルヘルム・フォン・ロイターのバルト・ドイツ人 の娘(18歳)と結婚、二子を儲け、うち一人はアレクサンドル2世 の子アレクセイと結婚したアレクサンドラである。1852年69歳のときバーデン=バーデン で歿、サンクトペテルブルク にあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院 の墓地に埋葬された。
業績
大量のヨーロッパ文学をロシア語に翻訳することで、国語改革および土着の文学の振興に貢献した。数ある翻訳の中でも、ドイツとイギリスのバラッド の流麗な翻訳はとりわけ称賛される。
「リュドミーラ」(1808年)、「スヴェトラーナ」(1808-12年)の翻訳は、ロシア詩の伝統の中で時代を画するものだった。いずれも、近世バラッド史上、最高傑作と目されるビュルガー作「レノーレ」(1774年)を元にしているが、別々の解釈に基づいて翻訳された。この翻訳を通じて、ロシア語らしく響く長短短 六歩格 の表現を磨いた。シラー 作品は、歌詞、バラッドから、ジャンヌ・ダルク を取り上げたドラマ 『オルレアンの乙女』まで、幅広く翻訳し、原典に優るとも劣らぬ名訳としてロシアでは古典となっている。内面的な感情の表白を叙情詩に試みたのはジュコーフスキーが史上初めてで、ドストエフスキー をはじめとする19世紀の文人のほとんどに影響を与えている。ヨーロッパ文学の旺盛な伝達は、ロシア語による解釈学 の骨子を形づくった。
1812年ナポレオン・ボナパルト のロシア侵攻 の際は、総司令官ミハイル・クトゥーゾフ のもと参謀となり、愛国詩を量産する。その中の A Bard in the Camp of the Russian Warriors は、宮廷で評判を呼んだ。ロシア帝国 国歌、神よツァーリを護り給え を作詞してもいる。戦後1915年からサンクトペテルブルク で宮仕えを始めた。同年結成した反古典主義 を掲げるアルザマス会には、10代のプーシキン が参加していて、ジュコーフスキーの後継者としてめきめきと頭角を現した。最終的にプーシキンは年長の詩人の影響下から脱することになるが、それでもジュコーフスキーの庇護を受けていたように、両者は生涯の友であった。
師カラムジンと同じく、ヨーロッパを広く旅し、世界に名だたる文化人であるゲーテ やティーク 、風景画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ と親交を結んだ。若いころからの知己にフリードリヒ・フーケ がおり、その作品『ウンディーネ 』はヨーロッパでベストセラー になったが、ジュコーフスキーはこれを1830年代後半に『ウンディナ』として翻案し、前衛詩の分野で注目を浴びた。ワルツの六歩格で書かれ、のち古典的ロシアバレエ の基礎となった。
余生はフェルドウスィー など、インドやペルシアの叙事詩の翻訳に明け暮れ、1849年にはホメーロス の『オデュッセイア 』を六歩格で翻訳出版した。原文への忠実さに欠けるものの、音調がよいので古典扱いされ、ロシア詩の歴史に刻まれた。『オデュッセイア』と『ウンディナ』は、曲がりなりにもロシアの小説の発展に寄与したとする学者もいる。