ヴァイノ・ヴァルデマール・アールトネン(フィンランド語: Wäinö Valdemar Aaltonen、1894年3月8日 - 1966年5月30日)はフィンランドの美術家、彫刻家[1]。チェンバーズ人名辞典(英語版)は彼を「フィンランドの優れた彫刻家の1人」であると形容した[2]。
生涯
アールトネンはフィンランドのカリナイネン(英語版)村で仕立屋の息子として生まれた。子供の頃から聾者だったが、美術に興味を持ち、1910年から1915年までトゥルク絵画学校(フィンランド語版)で美術を学んだ[3]。トゥルク絵画学校では主に絵画を学び、彫刻家としての技芸は独学だった。大理石の加工技術は親戚のアーッレ・アールトネン(フィンランド語版)とともに、またヒルヴェンサロ島(英語版)で石工の学徒として働いたときに勉強した。彫刻家のフェリクス・ニールンド(フィンランド語版)がトゥルク絵画学校で1学期代理教師を務めたが、彼の作品は若いアールトネンに多くの霊感を与えた[4]。
1923年、アールトネンはイタリアへ旅行した。彼はこの旅行でキュビズムと未来派を知り、後の絵画作品でその傾向が表れた。
第一次世界大戦の戦火が広がる最中、アールトネンは戦争祈念碑を作った。彼はすぐに民族主義者にフィン人の模範として称賛され、1927年にはストックホルムで展覧会が開かれた。彼の彫刻は民族主義的であり、フィンランド国民の胸像や記念碑を作ることで知られる。一例としては1925年に作った、ヘルシンキ競技場で飾られたパーヴォ・ヌルミの像があり、別の例としては1928年に作ったジャン・シベリウスの胸像がある。この2作品はアールトネンの多くの作品と同じく銅像であったが、彼は石像やガラス像も作った。主に写実主義の影響がみられるが、キュビズムによる影響もある。アールトネンは20世紀初期における直彫りの先駆者であった。
フィンランドの新しい国会議事堂が建てられたとき、建築家のヨハン・シグフリド・シレン(英語版)はアールトネンから直接彫刻を購入することを望んだが、結局公開コンペが行われ、やはりアールトネンの「労働と未来」が勝利した。アールトネンが1932年に完成した、金箔を着せた石膏像は彼の死後に銅像に作り替えられた[5]。
1966年、ヘルシンキで死去した。アールトネンの作品の多くはトゥルクにあるヴァイノ・アールトネン美術館(英語版)の常設展で展示されている[6]。
家族
アールトネンは4度結婚した。彼は1920年に歌手のアイノ・ピエティライネン(Aino Pietiläinen)と、1931年に女優のエルサ・ランタライネン(英語版)と、1942年に画商のエルヴィ・ヘルテル(Elvi Hertellと、1961年に医者のエリサベト・マーシクと結婚した。一人息子のマッティ・アールトネン(フィンランド語版)は建築家になり、トゥルクのヴァイノ・アールトネン美術館などを設計した[4]。
栄典
アールトネンは1940年に教授の称号を与えられ[7]、スオメン・アカテミア(英語版)の会員を1948年から[8]1964年まで務めた[9]。1941年にルンド大学に名誉教授に[7]、1950年にヘルシンキ大学の名誉教授に任ぜられ[8]、1958年にソビエト美術アカデミーの名誉会員になった[10]。1947年、スウェーデン王家からプリンス・エウシェン勲章(英語版)を授与された[11]。
トゥルクのヒルヴェンサロ島(英語版)ではアールトネンに因んで名づけられた学校[12]と海浜公園がある[13]。
作品
- Tytön pää, n. 1917
- グラニーッティポイカ(フィンランド語版), 1917-1920
- Maria Jotuni, 1918-1920
- Opettajani, 1919
- Aaro Hellaakosken pronssipää, 1919
- Savonlinnan sankaripatsas, (「英雄の墓」) 1919-1921
- Punagraniittinen neito, 1923
- Mustagraniittinen neito, 1924
- パーヴォ・ヌルミ競走像, 1924-1925
- Seisova nainen, 1920-1924
- Istuva nainen, 1920-1925
- Uimaan lähtevä nainen, 1924
- リリャ像(フィンランド語版)(トゥルク), n. 1924-1926
- ムシカ(フィンランド語版), 1926
- アレクシス・キヴィ像(タンペレ), 1926-1927
- ハメ橋(英語版)上の像, Tampere: Eränkävijä (猟師), Veronkantaja (収税吏), Kauppias (商人) ja Suomen neito, 1927-1929
- ミュルスキュ(フィンランド語版)(水雷艇S2(英語版)がポリのレポサーリ島(英語版)近くで沈没したときの犠牲者53人の記念像), 1930
- フィンランド国会議事堂(英語版)の会議庁にある像, 1930-1932
- アレクシス・キヴィ記念像(フィンランド語版)(ヘルシンキ), 1930-1939
- Marjatta, 1934
- Delaware-muistomerkki, 1937-1938
- Vapauden jumalatar seppelöi nuoruuden, 1939-1940
- カマラの戦い(英語版)の記念碑, 1939/1949
- Tampereen Osuustoimintamuistomerkki, 1949-1950
- 友情が生まれたとき(英語版)(姉妹都市同士のトゥルクとヨーテボリの記念碑), n. 1948-1955
- Lahden sankaripatsas, 1952
- Rautatienrakentajien muistomerkki, 1957, Hyvinkää
- ジェニウス・オヒャー・ヌオルーッタ(フィンランド語版)(トゥルク大学図書館の正門にある像), 1958-1960
- 国会議事堂前にある初代大統領と首相の像:カールロ・ユホ・ストールベリ(英語版), 1957-1958; ペール・エヴィンド・スヴィンフッヴド, 1957-1959
- Genius Montanus(トゥルクにあるアールトネンの墓の像), 1960
脚注
- ^ “AALTONEN, WÄINÖ Waldemar” (フィンランド語). Register of the Artists' Association of Finland. Artists’ Association of Finland. 15 January 2017閲覧。
- ^ Chambers Biographical Dictionary(英語版), ISBN 0-550-18022-2, p. 1.
- ^ Schildt, Göran, Modern Finnish Sculpture. Praeger Publishers, New York, 1970.
- ^ a b Ahtola-Moorhouse, Leena. “Aaltonen, Wäinö” (スウェーデン語). Biografiskt lexikon för Finland. Svenska litteratursällskapet i Finland. 15 January 2017閲覧。
- ^ “Parliament's Buildings and Art”. Parliament of Finland. p. 21. 15 January 2017閲覧。
- ^ “Wäinö Aaltonen”. Wäinö Aaltonen Museum of Art. 15 January 2017閲覧。
- ^ a b Pfäffli (kirj. Pfäffli), 1994, p. 323.
- ^ a b Pfäffli (kirj. Pfäffli), 1994, p. 324.
- ^ Pfäffli (kirj. Pfäffli), 1994, p. 327.
- ^ Pfäffli (kirj. Pfäffli), 1994, p. 325.
- ^ “Medaljförläningar – Prins Eugen-medaljen” (スウェーデン語). Sveriges Kungahus. 2017年2月20日閲覧。
- ^ “Wäinö Aaltosen koulutie”. Turun kaupunki. 2017年2月17日閲覧。
- ^ “Wäinö Aaltosen rantapuisto”. Turun kaupunki. 2017年2月17日閲覧。
参考文献
- Pfäffli, Heidi (toim.) (1994). Wäinö Aaltonen 1894–1966. Turku: Wäinö Aaltosen museo. ISBN 952-9565-09-7
外部リンク