この項目「ワンダ・ガアグ」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:14:28, 2 May 2015(UTC))
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1893年3月11日にミネソタ州ニューアルム(英語版)で生まれた[6]。父親は画家、写真家だったアントン・ガアグ(英語版)。7人きょうだいの一番上で、絵を描いたり、歌ったり、物語や詩を書きながら育ち[7]、10代の頃に描いたイラスト主体の物語である「Robby Bobby in Mother Goose Land」がミネアポリス・ジャーナルの子供新聞増刊号に掲載された[8]。15歳の時に父親が死去、ワンダに最後に遺した言葉は「Was der Papa nicht thun konnt’, muss die Wanda halt fertig machen.(→パパは何もできなかったから、ワンダは最後までやり遂げてくれ。)」だった[9]。父親の死後、一家は戦争に巻き込まれ、働かざるを得なくなったとされる。しかしこれらの困難にも負けず学校に通い続け1912年6月に卒業、同年11月から1913年6月までスプリングフィールド(英語版)にある国立学校で教鞭を取っていた[10]。
1927年、ネイション誌の「These Modern Women: A Hotbed of Feminists(→現代的な女性たち:フェミニストの温床)」というガアグに関する記事で、男性関係について書くためにアルフレッド・スティーグリッツやエグモント・アレンス(英語版)を取り上げ、「The way you solved that problem seems to me to be the most illuminating part of your career. You have done what all the other ‘modern women’ are still talking about.(→問題を解決する方法は生涯で最も輝いている部分にあると思う。全ての他の「現代的な女性」が未だに何を話しているのかも分かっている。)」と書いている[25][26]。また、左派雑誌であるザ・ニュー・マッシズ(英語版)やザ・リベレーター(英語版)の表紙イラストも描いている[27][28]。1927年、イラスト主体の物語である「Bunny's Easter Egg」が児童雑誌のジョン・マーティンズ・ブック(英語版)に掲載された[29]。
1929年、ニューヨーク市のダウンタウン・ギャラリー(英語版)で行われたガアグのレビュアー(ペギー・ベーコン(英語版)も参加)によるジョイントショーにて「Wanda Gag’s imagination leaps out from dusky shadows and terrifies with light, an emotional source difficult to analyze…(→ワンダ・ガアグのイマジネーションはくすんだ影から飛び出し、光で恐れさせるが、探るのが難しい情熱の源…)」と評された[30]。やがて自身の作品は国際的な名声を得るようになり、アメリカ合衆国グラフィックアート協会(英語版)のフィフティ・プリンツ・オブ・ザ・イヤー(Fifty Prints of the Year)を1928年、1929年、1931年、1932年、1936年、1937年、1938年に受賞している[31]。1939年にニューヨーク近代美術館で開催された「アート・イン・アワー・タイム」(Art in Our Time)やニューヨーク万国博覧会の「アメリカン・アート・トゥデイ」展覧会などガアグの作品はニューヨークで展示され続けている[32]。
児童図書
コワード・マッキャン(英語版)の児童図書部門で責任者であるアーニスティン・エヴァンス(英語版)はガアグの作品に興味を抱いていた。日々発行される児童図書に不満を示し、より現実的であまり理想化されていない本を製作するために新たな作家や芸術家を探していた。そして、ガアグに古い作品の改訂版のイラストを依頼したが、ガアグは「I am simply not interested in illustration as such... It has to be a story that takes hold of me way down deep(→絵を描くだけの仕事には興味がなく、深く掘り下げた物語を自身で書きたい。)」と断った[33]。そこでエヴァンスはガアグが文筆と挿絵を手がけた本を出すことを容認し1928年に「100まんびきのねこ」を出版、絵本で権威のある賞であるニューベリー賞を受賞することになる[34]。
1935年、原始的なフェミニズムに基づく[35]「すんだことは すんだこと」(Gone is Gone; or, the Story of a Man Who Wanted to Do Housework)を出版した。この時の一部の教育者はお伽話を嫌い、より現実的な内容の児童文学を好んでいたが[36]、ガアグは「I know I should feel bitterly cheated if, as a child, I had been deprived of all fairy lore...(→私がもし子供として妖精のお話が全て奪われたら激しく騙されたと感じることを知っている。)」と反論している[37]。これらのお話を活用するようになり、1936年に「ヘンゼルとグレーテル」(Tales from Grimm)を出版、2年後にディズニー映画版の「つまらなさ、不毛さ、感傷的さ」に対抗する形で「しらゆきひめと七人の小人たち」(Snow White and the Seven Dwarfs)を翻訳し挿絵を描いた[38]。
『ホーン・ブック・マガジン』の1939年3月号にはエッセイである「I Like Fairy Tales」が掲載、1942年には「Nothing at All」がコールデコット賞を受賞した。死後の1947年、マーゴット・タイムズがガアグによって翻訳された4つのお伽話と話ごとに新たな挿絵を掲載した「More Tales from Grimm」が出版された。
晩年の「なんにも ないない」(Nothing At All)を除くと挿絵はモノクロの作品がほとんどだったが、木版、エッチング、リトグラフなど版画の技法を習得しており、印刷インキの色合いに繊細な感覚があったと評される。以後のイラストレーターが「ガアグの黒」を印刷業者に指定することもあったという[57]。
著書
文とイラスト
Batiking at Home: a Handbook for Beginners, Coward McCann, 1926