ロンガローネ
ロンガローネ(伊: Longarone)は、イタリア共和国ヴェネト州ベッルーノ県にある、人口約5,100人の基礎自治体(コムーネ)である。1963年10月9日、バイオントダム災害による大惨事を経験した。 2014年2月22日、カステッラヴァッツォを編入した。 地理位置・広がり・地勢ベッルーノ県の東部に位置し、東にポルデノーネ県(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州)と境を接する。アルプスに源を発しアドリア海に注ぐピアーヴェ川の上流に開けた小盆地に築かれた町である。県都ベッルーノから北北東15km、マニアーゴから西北西へ38km、州都ヴェネツィアから北へ93kmの距離にある。 隣接コムーネ隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のPNはポルデノーネ県所属を示す。
気候分類・地震分類気候分類では、zona F, 3331 GGに分類される[4]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 2 (sismicità media) に分類される[5]。
歴史古代・中世ロンガローネの歴史はローマ時代まで遡ることができ、墓地や街道など当時の遺跡が残されている。地名の起源ははっきりしないが、「細長い土地」を意味する longus から派生した Longara との関連が推測される[6]。 町の中心部にある聖クリストフォロ教会は、1300年頃に建設された。中世の歴史はベッルーノとともに歩んでおり、1420年以降はヴェネツィア共和国の領域に入った。 近代ロンガローネの町は長らくカステッラヴァッツォに属する地位にあったが、ナポレオン統治下の1806年に独立した都市となった。ウィーン会議後はオーストリアの勢力下に入り、1866年、イタリアに編入された。18世紀、ロンガローネは流通の拠点として経済的な繁栄を見せた。 第一次世界大戦中の1917年11月には、カポレットの戦いに関連したロンガローネの戦い (it:Battaglia di Longarone) の舞台となった。ドイツ軍のエルヴィン・ロンメル中尉は、ロンガローネに置かれたイタリア軍の駐屯地を占領し、多数の捕虜を得て名を高めた。 第二次世界大戦後1960年、この町の東にバイオントダムが完成した。262mという堤高は、当時世界で最も高いものであった。 1963年10月9日夜、バイオントダム災害 (it:Disastro del Vajont) が発生した。トック山から崩落した土砂がダム湖になだれ込んだ結果、ダムに湛えられていた5000万立方メートルの水は津波となり、堤を乗り越えてあふれ出した。堤の真西にあったロンガローネの町はその直撃を受け、泥水に飲み込まれた。この災害による1909人の死者のうち、ロンガローネのコムーネは1450人の犠牲を出している[7]。 この災害のあと町は再建され、復興を遂げている。 2003年10月、災害の40周年を迎えての追悼行事がロンガローネで行われ、チャンピ大統領が出席した。 行政分離集落ロンガローネには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
経済・産業ロンガローネに仕事を持っている人は4,642人にのぼり、これは居住人口の112.62%にあたる。住人の多くはコムーネの中で働いている。 眼鏡ベッルーノ県北東部(ロンガローネからコメーリコ・スペリオーレにかけてのカドーレ谷一帯)は、イタリアにおける眼鏡産業の集積地であり、ロンガローネはその中心地の一つである[8][9]。ロンガローネ集落の南にはピアーヴェ川に沿って工業団地が造成されており[8]、2000年代におけるイタリアの眼鏡大手4社うち、デ・リーゴ (it:De Rigo) とマルコリン社 (it:Marcolin) は、ロンガローネに本社を構えている[9]。 ジェラートロンガローネは、隣接するゾルド谷・カドーレ谷の村(ゾルド・アルト、フォルノ・ディ・ゾルド、ゾッペ・ディ・カドーレ)とともに、ジェラートの町としても知られている。ロンガローネでは毎年冬に「国際ジェラート展示会」(Mostra Internazionale del Gelato Artigianale, 略称:MIG)が開かれている[10]。「国際ジェラート展示会」は1959年12月に第1回が開かれた。 人口人口推移
交通国道 SS51 がピアーヴェ川に沿ってコムーネを南北に縦貫しており、北はカステッラヴァッツォを経てピエーヴェ・ディ・カドーレに、南はポンテ・ネッレ・アルピに至る。また、コムーネを東西に貫く県道 SP251 は、西にゾルド谷を遡ってラ・ヴァッレ・アゴルディーナとを結び、東にフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州との州境を越えヴァイオント谷に入り、エルト・エ・カッソとを結ぶ。 姉妹都市
註
関連項目
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