ロバート・フィック
ロバート・フィック(Robert Fick, 1974年3月15日 - )は、MLBの元選手。ポジションは捕手、一塁手、外野手。アメリカ合衆国・カリフォルニア州トーランス出身。 経歴プロ入り - タイガース時代 (1996 - 2002)1992年6月1日に、ドラフト45巡目でオークランド・アスレティックスから、そして1995年6月1日にドラフト43巡目でデトロイト・タイガースから指名されたが、いずれも契約しなかった[1]。 1996年6月4日に、3度目のドラフトで5巡目でタイガースから指名され、7月5日に契約を結んだ[1]。プロ入り後、マイナーリーグのジェームズタウン・ジャマーズ (A-級) に配属され、43試合に出場。打撃面では、打率.248・1本塁打・14打点・3盗塁・OPS0.622という成績を残した。そして守備面では、23試合でキャッチャーとして守りに就き、3失策・守備率.982・盗塁阻止率21%という成績を残した。 1997年は、A級のウェストミシガン・ホワイトキャップスに昇格して122試合に出場。打率.341・16本塁打・90打点・13盗塁・OPS0.994という打撃成績を残した。守備面では、キャッチャーとして出場したのは9試合だけで、他に96試合でファースト、3試合でサードの守りに就いた。最も多く守ったファーストでは10失策・守備率.990を記録した。 1998年は、9月18日のミネソタ・ツインズ戦でメジャーデビューを果たし、ヒットを2本放って1打点を挙げた[1]。この年メジャーでは7試合に出場し、打率.364・3本塁打・7打点・1盗塁・OPS1.235という成績を残した。守備では、キャッチャーとファーストを守った。また、マイナーではAA級のジャクソンビル・サンズで130試合に出場し、打率.318・18本塁打・114打点・8盗塁・OPS0.939という成績を残した。 1999年は、手術した右肩のリハビリの影響で、前年のメジャー昇格以来、プレー出来ない状態が続いた[2]。しかし、9月以降にメジャーでプレーする機会を得たフィックは[3]、15試合に出場。9月27日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では、ジェフ・モンゴメリーからグランドスラムを放ったが、これは当時のタイガースの本拠地であるタイガー・スタジアムで最後に記録された安打且つ得点であった[2]。また、同年マイナーではトレド・マッドヘンズ (AAA級) 、ウェストミシガン、GCL・タイガース (ルーキー級) の3階級で計20試合に出場し、打率.309・2本塁打・10打点・3盗塁・OPS0.856という成績を残した。 2000年は、66試合に出場して打率.252・3本塁打・22打点・2盗塁・OPS0.715という打撃成績を残した。守備では、ファースト34試合で4失策・守備率.984、キャッチャー16試合で1失策・守備率.981・盗塁阻止率29%という成績をのこしたほか、指名打者としても12試合に出場した。また、マイナーではトレドで17試合に出場した。 2001年は、124試合に出場して打率.272・19本塁打・61打点・OPS0.816という成績を記録。本塁打は自己最多であり、打率とOPSも100試合以上に出場したシーズンの中ではキャリアハイの数値だった。守備面では、キャッチャー78試合で6失策・守備率.986・盗塁阻止率17%、ファースト26試合で1失策・守備率.995、ライト8試合で無失策だった。 2002年は、オールスターにも選出され、代打からの出場でヒットを1本放った[4]。同年は148試合に出場し、打撃面では打率.270・17本塁打・63打点・OPS0.764という成績を残した。また、守備面ではライトに専念し、140試合で守って12失策・守備率.963という成績を記録。また、外野手として補殺 (21) 、失策、併殺の関与数 (5) でリーグトップだった[5]。オフの12月21日にFAとなった[1]。 ブレーブス時代 (2003)2003年1月6日に、アトランタ・ブレーブスと契約を結んだ。ブレーブスでは126試合に出場し、打率.269・11本塁打・80打点・1盗塁・OPS0.753という成績を記録。守備面では115試合でファーストを守り、14失策・守備率.987・DRS+4という成績を残した。この年ブレーブスは地区優勝した為、フィックもキャリア初のポストシーズンを経験。ただ、シカゴ・カブスとのNLDS第4戦では、一塁を駆け抜ける際、エリック・キャロスの腕を叩いて捕球を妨害[6]。フィックは故意ではないと説明したものの、2万5,000ドルの罰金を科され、当時のブレーブスの監督だったボビー・コックスからも、別途罰金を科された (金額は未公表) [6]。なお、同シリーズでフィックは4試合に出場したが、ノーヒットに終わった[1]。そして、11月5日にブレーブスから解雇された[1]。 デビルレイズ時代 (2004)2004年1月9日に、タンパベイ・デビルレイズと契約した[1]。デビルレイズでは76試合に出場し、打率.201・6本塁打・26打点・OPS0.600という成績を残した。守備面では、レフト、ファースト、ライト、キャッチャーの4ポジションで守りに就いた。8月18日に、デビルレイズをリリースされた[1]。 パドレス時代 (2004 - 2005)デビルレイズから放出された翌日の8月19日、サンディエゴ・パドレスと契約した[1]。パドレス加入後は13試合に出場したが、打率.167・OPS0.500に終わった。なお、マイナーではAAA級のポートランド・ビーバーズで12試合に出場し、打率.380・2本塁打・6打点・1盗塁・OPS0.984を記録した。オフの11月1日にFAとなった[1]。 翌2005年2月19日に、パドレスと再契約[1]。同年はパドレスで93試合に出場し、打率.265・3本塁打・30打点・OPS0.705という打撃成績を残した。守備面では、ファースト、キャッチャー、ライト、レフト、サードの5ポジションを守った。サードの守りに就いたのは、メジャーでは2005年のみで、しかも1試合だけだった。マイナーでは、エル・パソで10試合に出場し、打率.375・3本塁打・11打点・1盗塁・OPS1.210という成績を残した。そして、10月28日にFAとなった[1]。 ナショナルズ時代 - 引退 (2006 - 2007)2005年12月13日に、ワシントン・ナショナルズと契約を結んだ[1]。 2006年は、ナショナルズで60試合に出場して打率.266・2本塁打・9打点・1盗塁・OPS0.667という成績を残した。守備は、キャッチャー26試合で1失策・守備率.991・DRS-3・盗塁阻止率6%、ファースト13試合で無失策・DRS+1、ライト6試合で無失策・DRS-2を記録した。オフの10月30日にFAとなったが、12月20日に再契約[1]。 2007年は、4年ぶりの100試合以上となる118試合に出場し、打率.234・2本塁打・16打点・OPS0.614という成績を残した。守備では84試合でファーストを守り、4失策・守備率.989・DRS-3という成績を記録したほか、レフトとライトも守った。10月29日にFAとなった。 2007年12月21日にパドレスと契約を結んだが[1]、メジャー及びマイナーでは試合に出場せず、2008年は独立リーグであるゴールデンベースボールリーグのオレンジカウンティ・フライヤーズでプレー。61試合に出場して打率.299・5本塁打・48打点・1盗塁・OPS0.802という成績を残したが、同年引退した[7]。 選手としての特徴打撃面では2001年から3年連続2桁本塁打を記録したようにパンチ力がある。守備面では捕手、一塁手、外野手と複数ポジションをこなせるという点が魅力だが、送球が不安定で肩も強くなく、守備範囲も狭いという弱点がある。 詳細情報背番号
年度別打撃成績
獲得タイトル・表彰・記録
脚注
外部リンク |