ジョージ・ナップトン による肖像画、1748年/1749年。
初代カーロウ伯爵 ロバート・ナイト (英語 : Robert Knight, 1st Earl of Catherlough KB 、1702年 12月17日 – 1772年 3月30日 )は、グレートブリテン王国 の政治家、アイルランド貴族 。南海会社 の創設者の1人ロバート・ナイト の息子であり、庶民院 議員(在任:1734年 – 1754年、1762年 – 1768年、1770年 – 1772年)を務めた[ 1] 。
生涯
ロバート・ナイト (1675年11月30日 – 1744年11月8日、ロバート・ナイトの息子、南海会社 の創設者の1人)と妻マーサ(Martha 、旧姓ポウェル(Powell )、1681年洗礼 – 1718年、銀行家ジェレマイア・ポウェルの長女)の息子として[ 2] 、1702年12月17日に生まれた[ 3] 。妹にキャサリン(Catherine 、1704年 – 1736年)とマーガレッタ(Margaretta 、1713年 – 1739年)がいる[ 2] 。1719年6月22日、オックスフォード大学 ウォダム・カレッジ (英語版 ) に入学した[ 4] 。同年にインナー・テンプル にも入学した[ 1] 。オックスフォード大学では学位を修得せず、法律家に向けての勉強も南海泡沫事件 により父とともにフランスへの逃亡を余儀なくされて中断した[ 5] 。以降父が20年ほどフランスに滞在した一方[ 2] 、事件に関与していないナイトは本国とフランスを行き来した[ 5] 。
1729年までにロンドン のグローヴナー・ストリート(Grosvenor Street )に住居を構えるようになり、地方では1730年にウォリックシャー のアレンホール (英語版 ) 近くにあるバレルズ・ホール (英語版 ) を親族レイリー・ナイト(Raleigh Knight )から購入した[ 5] 。1734年イギリス総選挙 でグレート・グリムズビー選挙区 (英語版 ) から出馬して当選、1741年イギリス総選挙 でも再選した[ 6] 。議会でははじめ野党派ホイッグ党 に属したが、後に与党に転じ、1739年にスペインとのパルド協定 (英語版 ) に賛成票を投じた[ 1] 。
1742年に首相ロバート・ウォルポール が辞任すると、父がすでに20万ポンド以上の財産を没収されたため、十分な刑罰になっていると主張して、父への恩赦を勝ち取った[ 1] 。父は1743年5月に帰国したが、1744年11月8日に死去[ 2] 、ナイトがラクスバラ(Luxborough )での領地を継承した[ 5] 。その後も1745年ジャコバイト蜂起 の鎮圧にヘッセン傭兵を送ることに賛成するなど政府を支持して[ 1] 、1745年8月8日にアイルランド貴族 であるシャノンのラクスバラ男爵 に叙された[ 3] [ 7] 。
1747年イギリス総選挙 で第2代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール の支持を得てキャッスル・ライジング選挙区 (英語版 ) で当選した[ 1] 。1754年イギリス総選挙 ではグレート・グリムズビーで立候補したが、候補者が3人いたため選挙戦になり、首相初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリス は候補者のうちラクスバラ男爵が最弱であると推測し、ラクスバラは実際に投票までに立候補を諦めた[ 8] 。1761年イギリス総選挙 では息子ヘンリー を支持してグレート・グリムズビーで当選させ、自身もグリムズビーの市裁判所判事に選出された[ 8] 。そして、1762年8月にヘンリーが死去すると、ラクスバラ男爵は自ら立候補して当選した[ 8] 。
2度目の議員期ではビュート伯爵内閣 (1762年 – 1763年)とグレンヴィル内閣 (1763年 – 1765年)を支持[ 9] 、ジョージ・グレンヴィル の首相就任直後の1763年5月14日にアイルランド貴族であるカーロウ伯爵 とカーロウ県 におけるバレルズ子爵 に叙された[ 3] [ 10] 。第1次ロッキンガム侯爵内閣 (1765年 – 1766年)に対しては野党の立場にあり、1766年2月に印紙法 廃止に反対票を投じた[ 9] 。1768年イギリス総選挙 では再選に失敗し、以降カーロウ伯爵のグレート・グリムズビーにおける勢力は消滅した[ 8] 。
1770年5月18日にバス勲章 を授与されたが[ 3] 、その代償として1770年5月にミルボーン・ポート選挙区 (英語版 ) で立候補し、3,000ポンドを費やして(5,000ポンドとも[ 5] )当選した上で政府を支持しなければならなかった[ 9] 。そのため、1770年のフォークランド危機 をめぐるスペインとの協定では賛成票を投じた[ 9] 。
1772年3月30日に死去、はじめはバレルズ・パークの納骨所に埋葬されたが、1830年に強盗に入られたため、ウォリックシャー のアレンホール (英語版 ) に改葬された[ 3] [ 5] 。嫡出の息子に先立たれたため、爵位はすべて廃絶、遺産は庶子のうちの長男ロバートが継承した[ 3] 。
家族
妻ヘンリエッタ (英語版 ) の肖像画、マリア・フェレルスト (Maria Verelst )画。
娘ヘンリエッタの肖像画、フランシス・コーツ 画。
1727年6月10日、ヘンリエッタ・シンジョン (英語版 ) (1699年7月15日 – 1756年3月26日、初代シンジョン子爵ヘンリー・シンジョン の娘)と結婚[ 3] 、1男1女をもうけた[ 1] 。
ヘンリー (1728年12月25日 – 1762年8月15日) - 庶民院 議員。1750年6月21日、フランシス・ヒース(Frances Heath 、1782年没、トマス・ヒースの娘)と結婚、子供なし[ 3] [ 11]
ヘンリエッタ(1763年没) - 1748年にCharles Wymondesold と結婚したが、ジョサイア・チャイルド閣下(Hon. Josiah Child 、1760年没、初代ティルニー伯爵リチャード・チャイルド (英語版 ) の息子)と不倫関係になり、1754年1月にはチャイルドとの間で息子をもうけた[ 5] 。そのため、ヘンリエッタは離婚して1754年5月にチャイルドと結婚したが、Wymondesoldがヘンリエッタを不倫で訴えて多額の慰謝料を勝ち取ったため、2人は外国に住むことを余儀なくされた[ 5]
妻ヘンリエッタの不倫(相手は医者チャールズ・ピーターズ(Charles Peters )か詩人ジョン・ダルトン (英語版 ) 、もしくはその両方とされる)により、2人はヘンリエッタがバレルズに住むことを条件に1736年に別居した[ 5] 。ナイト自身もグローヴナー・ストリートでの住居から退去して、息子ヘンリーをチェルシー の学校に送り、娘ヘンリエッタをシンジョン子爵のもとに送った[ 5] 。
1756年6月18日、メアリー・ル・ケーヌ(Mary Le Quesne 、1795年没、ロンドンの長老議員 (英語版 ) サー ・ジョン・ル・ケーヌ(1741年没)の未亡人、おそらくレイリー・ナイトの娘)と再婚したが、2人の間に子供はなく、1765年ごろには別居した[ 5] 。別居と同じ頃にジェーン・デイヴィス(Jane Davies )と住むようになり、2男2女をもうけた[ 5] 。
出典
^ a b c d e f g Sedgwick, Romney R. (1970). "KNIGHT, Robert (1702-72), of Barrells, Warws. and Luxborough, Essex." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ a b c d Handley, Stuart (3 January 2008) [26 May 2005]. "Knight, Robert". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/75056 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 110–111.
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (E to K) (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 803.
^ a b c d e f g h i j k l m Handley, Stuart (3 January 2008) [26 May 2005]. "Knight, Robert, earl of Catherlough". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/75057 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ Watson, Paula (1970). "Great Grimsby" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ "No. 8556" . The London Gazette (英語). 22 July 1746. p. 2.
^ a b c d Cannon, J. A. (1964). "Great Grimsby" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ a b c d Brooke, John (1964). "KNIGHT, Robert, 1st Baron Luxborough [I] (1702-72), of Barrells, Warws. and Luxborough, Essex" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ "No. 10308" . The London Gazette (英語). 26 April 1763. p. 5.
^ Brooke, John (1964). "KNIGHT, Henry (1728-62), of BarrelIs, Warws." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ Thorne, R. G. (1986). "KNIGHT, Robert (1768-1855), of Barrells Hall, Henley-in-Arden, Warws." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
^ Symonds, P. A. (1986). "BOND HOPKINS, Benjamin (?1745-94), of Painshill, Surr." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月12日閲覧 。
外部リンク