ルキウス・アウレリウス・オレステス (紀元前126年の執政官)
出自オレステスが属するアウレリウス氏族が勃興したのは比較的遅く、紀元前3世紀の半ばになって重要な公職につくようになった(氏族で最初に執政官になったのは、紀元前252年のガイウス・アウレリウス・コッタ)。従って、紀元前2世紀にはすでに十分な財力と影響力を有していたものの、いわゆるノビレス(新貴族)とみなされていた[1]。凱旋式のファスティによれば父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウスである[2]。このため、オレステスは紀元前157年の執政官ルキウス・アウレリウス・オレステスの息子であると考えられる[3]。 経歴オレステスの初期の経歴は不明である。しかし、ウィッリウス法(en)の規定と執政官に就任したときから逆算して、遅くとも紀元前129年には法務官(プラエトル)に就任していたはずである。紀元前126年に執政官に就任、同僚はパトリキ(貴族)出身のマルクス・アエミリウス・レピドゥスであった[3]。 当時サルディニアでは反乱が発生しており、この鎮圧のためにオレステスが派遣された[4]。彼の部下には財務官(クァエストル)を務めていた[5]若きガイウス・グラックス(グラックス弟)と、マルクス・アエミリウス・スカウルスがいた。両者共にサルディニアからその政歴を開始したことになる[6]。ローマ軍は冬季衣服が不足しており、このため冬季に大変な困難に陥いる可能性があった。サルディニア都市はローマ軍への衣服提供を拒否したが、これは元老院の承認を得ての高位であった。このときに、グラックスはサルディニア中を歩き回って支援を求め、この困難を救っている。ヌミディア王ミキプサも独自の判断でローマ軍に穀物を提供しているが、これもグラックスに敬意を払ってのことだった。その後、元老院はグラックスの人気に懸念を抱き、サルディニア遠征軍を交代させることとした。しかし、オレステスは前執政官(プロコンスル)としてその後も数年間サルディニアに留まったが、グラックスはローマへ戻った[7]。オレステスは紀元前122年にようやくローマに戻り、凱旋式を実施している[3]。オレステスのその後に関しては不明である。 キケロはオレステスが弁論家として尊敬されていたと書いている。にもかかわらず、スキピオ・アエミリアヌスとガイウス・ラエリウス・サピエンスの時代には、彼の名前は「著名でない弁論家」にリストされている程度である。彼の演説の原文は、キケロが『ブルトゥス』を著述した紀元前46年までは保存されていた[8]。 子孫同名の息子ルキウス・アウレリウス・オレステスは、紀元前103年に執政官を務めている[9]。 小説オレステスはミリィ・イェジエルスキーの小説『グラックス兄弟』の主要な登場人物の一人である。 脚注参考資料古代の資料
現代の研究書
関連項目
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