ルイージ・ガルヴァーニ
ルイージ・ガルヴァーニ(Luigi Galvani、1737年9月9日 - 1798年12月4日)はイタリアのボローニャ出身の医師、物理学者である。姓はガルバーニとも表記する。1771年、電気火花を当てると死んだカエルの筋肉が痙攣することを発見した[1]ことが生体電気研究の端緒となり、今日の神経系の電気パターンや信号の研究に繋がっている。 経歴当初は神学を学び、本人は教会の聖職者となることを望んでいたが、両親は医者になるよう教育を受けさせた。ガルヴァーニはボローニャの医学校で学び、父と同じ医者になった。1762年にはボローニャ大学の医学教授に就任し、1775年に同大学の解剖学教授となり、腕の良い寡黙な教授として評判になる。特に、鳥類の聴覚器や泌尿器・生殖器の比較解剖学的研究で有名になった。なお、1764年には同大学の別の教授の娘と結婚し、最終的には学長になった。 1780年11月、患者のためのスープの材料[要出典]としてカエルの解剖をする際に切断用と固定用の2つのメスをカエルの足に差し入れると震えるのを発見した。カエルの足の中に電気が起こるのを見つけた「ガルヴァーニの発見」は、電気に関する発見の口火となった。ガルヴァーニは、1791年に De viribus electricitatis in motu musculari commentarius(筋肉の運動における電気の力について)を著し、上述の現象は生物の中に電気が蓄えられる動物電気によると推論を立てた。 ガレノス以来、筋肉が動くのは神経が何らかの液体を運び、筋肉を膨張させるためだと考えられていた (balloonist theory)。ガルヴァーニの発見はこれを否定するもので、電気と筋収縮に関係があることを明らかにしたものである。 ガルヴァーニは筋肉を収縮させる力を「動物電気 (animal electricity)」と名付けた。ガルヴァーニや同時代の科学者らは、神経によって運ばれる電気流体が筋肉の収縮を起こすと解釈した。この現象を、アレッサンドロ・ボルタがガルヴァーニにちなんでガルヴァーニ電気と名付けた。後年、このような生物学的現象の研究は電気生理学と呼ばれており、ガルヴァーニ電気は歴史的な文脈でしか使われない。 ガルヴァーニとボルタボルタはガルヴァーニの実験からさらに研究を進めて電池を発明した。ガルヴァーニの名はガルバニ電池としても残っているが、ガルヴァーニ本人は電気は生体が発するものだと考えており、電池を作ったわけではない。ガルヴァーニ自身は生気論を尊重していたため、電気を生命の基本要素とは見ていなかった。ガルヴァーニは「動物電気」は筋肉内で発生すると信じていた。同時代人のアレッサンドロ・ボルタは逆に「動物電気」を物理的現象と捉え、2つの異なる金属(メス)をカエルの足を通して触れ合わせることにより発生したと考えた。両者で論争が起こり、1800年のボルタ電池の発明でボルタに軍配があがる。 ガルヴァーニが考えたように、生命活動は電気的なものであり、特に生体を構成する細胞それぞれに細胞電位(静止電位)があるが、その電気を発生する仕組みは化学電池と同じであり、生体外でも再現可能だという点でボルタの直観は正しかった。ボルタはガルヴァーニのいう「動物電気は流体だ」という結論には同意しなかったが、両者は意見は違えども互いに尊敬しあっており、ボルタは化学反応で発生した直流の電気を galvanism と名付けた(galvanism は直流電気とも訳される)[2]。電気発生の仕組みについての意見の対立から、ボルタは相手の理論が間違っていることを示すために世界初の電池を作った。それがボルタ電池と呼ばれるようになった。ガルバニ電池とはボルタ電池なども含めた化学電池が電気を発生する仕組み、あるいは同様の電気化学的な系を指すもので、特定の電池を意味しない。 この背景としてボルタはイタリアを征服したナポレオンに崇敬の念を持ち、ガルヴァーニは生涯をつうじてナポレオンを嫌った感情の対立も挙げられ、結果としてガルヴァーニがボローニャ大学を去るが現在のイタリアでは圧倒的にガルヴァーニは愛国者として親愛の対象となっている。 ボローニャにある記念碑ガルヴァーニのボローニャにある生家は今も保存されている。 ボローニャ大学に面したガルヴァーニ広場には、ガルヴァーニの大きな大理石像があり、手にカエルの脚を載せた板を持っている。 後世への影響
脚注・出典
外部リンク
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