リルイーティー
リルイーティー(Lil E. Tee, 1989年3月29日 - 2009年3月18日)は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。1992年のケンタッキーダービーに優勝した。 経歴
出自ペンシルベニア州のピンオークレーン牧場で生まれたサラブレッドの牡馬である。名前は生産者であるローレンス・I・リットマンの冠名である「Lil」に、ひょろ長い不恰好な姿からスティーヴン・スピルバーグの映画『E.T.』をもとに「E. Tee」がつけられた[4]。 リルイーティーは血統的にも強調材料が乏しかった。父アットザスレッショルドはG1競走2勝の実績馬であったが、生涯で出したステークス勝ち馬はリルイーティーを含めて8頭と種牡馬成績は貧弱であった[5]。また母エイリーンズモーメントは6戦未勝利に終わった馬であった。 また、当歳の頃に疝痛で命の危機に晒され、手術したこともあった。リットマンは同馬を1歳時に2000ドルで売却したが、その後2歳時にフロリダ州オカラのトレーニングセールに再び上場され、そこでアル・イェヴレモヴィッチに25,000ドルで落札された[2]。 2歳時(1991年)リルイーティーのデビュー戦は1991年9月28日のコールダー競馬場で、6ハロンの未勝利戦で2着であった。その次の7ハロンの未勝利戦で11馬身半差の大差をつけて初勝利を手にすると、これに目を付けたW・キャル・パーティーがイェヴレモヴィッチから20万ドルで同馬を購入した[1]。その後一般戦を2戦使って1勝を挙げ、4戦2勝でこの年を終えている。 3歳前半(1992年)3歳シーズンはアーカンソー州から始動、オークローンパーク競馬場のサウスウェストステークス(L・8ハロン)で3着であった。続くターフウェイパーク競馬場のジムビームステークス(G2・9ハロン)で優勝し、初の重賞勝ちを収めた。同州路線の大一番であるアーカンソーダービー(G2・9ハロン)ではパインブラフを相手にクビ差の2着に入っている。 ケンタッキーダービー(1992年)この年のケンタッキーダービー(G1・10ハロン)で本命と目されていたのは、前年アメリカとヨーロッパでそれぞれ最優秀2歳牡馬に選出されたアラジで、リルイーティーは最終オッズで単勝17.80倍と大穴扱いであった[6]。レースが始まるとリルイーティーはゆっくりと中団10番手に構え、バックストレッチでは内側に位置して進めていった。そして第3コーナーを回るところから大きく外側に出て他馬を追い抜きだし、最後の直線で先頭に立っていたカジュアルライズを1馬身差し切ってゴール、優勝を手にした[7]。鞍上を務めたパット・デイは10度目のダービー挑戦にして初の戴冠となった。また、リルイーティーの勝利はペンシルベニア州産馬として初のダービー制覇でもあった[3]。 その後ケンタッキーダービーの後はプリークネスステークス(G1・9.5ハロン)に出走して5着に敗れている。この後、リルイーティーは肺を患ったためベルモントステークスを回避している。さらに飛節に骨片が生じたため手術に入り、翌年まで休養を要した[3]。 4歳になった1993年の2月に復帰し、オークローンパークの一般戦(6ハロン)で勝利、続くレイザーバックハンデキャップ(G2・8.5ハロン)で優勝した。その後オークローンハンデキャップ(G1・9ハロン)で2着に入ったのち、怪我のため7月になって引退が発表された[3]。 種牡馬入り後競走馬引退後、リルイーティーはケンタッキー州レキシントン近郊のオールドフランクフォート牧場に繋養された。ジョッキークラブの調べによれば、リルイーティーの産駒332頭のうち171頭が勝ち上がり、17頭がステークス競走に優勝したとある[1]。 のちの2009年3月18日、リルイーティーは内臓疾患の合併症のために安楽死の処置を施された[3]。 血統表
脚注
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