リチャード・マーティン (オーヴァーベリ・コートの初代準男爵)初代準男爵サー・リチャード・ビダルフ・マーティン(Sir Richard Biddulph Martin, 1st Baronet、1838年5月12日 – 1916年8月23日[1])は、イングランドの銀行家、自由党(後には自由統一党)の政治家。庶民院議員を務めた。 略歴マーティンは、グロスタシャー州テュークスベリー近郊のオーヴァーベリに屋敷オーヴァーベリ・コートを構えていた父ロバート・マーティン(Robert Martin、1808年8月14日 – 1897年3月17日)と妻メアリー・アン(Mary Ann、1892年11月24日没、コックス・ビダルフ社の銀行業務を担っていたジョン・ビダルフ (John Biddulph) の娘)の長男として、1838年5月12日に生まれた[2]。父ロバート・マーティンは、後のマーティンズ銀行の前身であるグラスホッパー銀行 (the Grasshopper Bank) の共同経営者のひとりであった[3]。 マーティンはハーロー校を経て、1856年5月13日にオックスフォード大学エクセター・カレッジに入学、1859年にB.A.、1863年にM.A.の学位を修得した[4]。やがて母方の祖父の銀行で働き始めた[5]。後にマーティンは、イギリス北ボルネオ会社や銀行家協会(the Institute of Bankers:後の London Institute of Banking & Finance の前身)の設立者のひとりとなった。このほか、ウスターシャー、グロスタシャー、ケント州の治安判事を務めた[2]。 1864年8月25日、メアリー・フランシス・クロジアー(Mary Frances Crozier、リチャード・クロジアーの娘)と結婚した[2]。 1868年イギリス総選挙で自由党候補としてイースト・ウスターシャー選挙区(2人区)から出馬したが、3,789票(得票数3位)で落選、1880年イギリス総選挙で自由党候補としてシティ・オブ・ロンドン選挙区(4人区)から出馬、5,837票(得票数5位)で落選した[6]。 テュークスベリー選挙区における1880年4月の選挙結果が無効とされ、同年7月に補欠選挙が行われると、マーティンは三たび自由党候補として出馬、380票で当選した[6]。マーティンの先祖には、議会に議席を占めていた者もいたが、リチャード・マーティンはテュークスベリー選挙区から選出された最後のマーティン家の議員となった[5]。1885年の第3回選挙法改正でテュークスベリー選挙区の議会バラ (Parliamentary Borough) が廃止され、より広範囲に及ぶグロスタシャー州のカウンティ・ディヴィジョン (county division) に置き換えられた。 1885年イギリス総選挙では、マーティンは新設されたグロスタシャー州のテュークスベリー区域の選挙区には出馬せず、エセックス州のチェルムズフォード選挙区で立候補したが、3,079票で落選した[7]。 アイルランド自治をめぐって自由党が分裂した際には、分離した側の自由統一党に加わり、1886年イギリス総選挙で同党からアシュバートン選挙区に立候補したが、3,007票で落選した[7]。1892年イギリス総選挙でドロイトウィッチ選挙区から出馬、3,980票で当選した[7]。1895年イギリス総選挙では無投票で、1900年イギリス総選挙では4,020票で再選した[7]。 1905年12月12日、準男爵に叙された[8]。マーティンは子を残さずに死去し、本人の死去とともに準男爵位は廃絶した[1]。 マーティンは1906年から1907年まで、王立統計学会会長を務めた[9]。 脚注
外部リンク
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