ラーオ・イサラ (Lao Issara 「自由ラオス」)は、1945年 8月18日 に 、ペサラート 王子(ルアンパバーン王国のブンコン副王の王子)が組織した反仏・非共産主義のラオス民族主義運動[ 1] 勢力である。ラオ・イサラ とも表記される。
この短命に終わった民族運動は、第2次世界大戦 に占領軍であった日本の敗戦に伴うフランスによる再植民地化を契機に発生し、1949年に解散するまで、民族自治の下、フランスの再植民地化を阻止することを企図した。
仏印処理と日本の敗戦
1945年ラオスを占領する日本軍は、敗色濃いと見て、仏印処理 を実施、その一環としてフランス領インドシナ の各国を独立させた。3月11日 のベトナム帝国 成立、3月13日 カンボジア の独立宣言に続き、4月8日 ルアンパバーン王国 国王シーサワーンウォン にラオス王国 の独立を宣言させた[ 2] 。
同年8月15日に日本軍が降伏すると、首相 職にあったペサラートは、フランスが日本の侵略から守れなかったことを理由に、ラオス王国の正式な統一とフランスとの保護国 条約の破棄をシーサワーンウォン 王に進言した。しかし、国王は、以前のフランス植民地下にあるラオスの体制が望ましいと、これを拒否し、8月30日 に4月の独立宣言が無効であることを宣言した。
10月12日 、ラオス独立支持者は、外部勢力の間隙をぬって国王の廃位とペサラートを国家元首とする新政権『ラーオ・イサラ』の樹立を宣言した[ 3] 。
ラーオ・イサラ勢力の脆弱さ
当初6か月間は、ホー・チ・ミン 指揮下のベトミン と中国共産党 が支援する国防軍をペサラートの異母弟であるスパーヌウォン が指揮し、政権は維持された。
しかし、1946年 3月6日 ホー・チ・ミンがフランスと暫定協定は、中国共産党軍の撤退を含んでおり、そのことは単独で残されたラーオ・イサラ軍の弱体化を招いた。一方で、外国からの支援を受けられなくなった、ラーオ・イサラ軍は内部的な脆弱性をも露呈することとなった。
ラーオ・イサラは、都市部に拠点を置く民族運動であり、部族 意識の強い大衆層からは、支持を得るに至らずラオス独立の主張は大衆の共感を得なかった。
“大衆は、秩序の回復には、ほとんど沈黙しており、独立への想いも訴求することはなかった、個人的に言えば、それは、かつての体制―即ち、フランス-への忠誠心なのだと考える。.” - Houmphanh Saignasith, 経済大臣補佐官
ラーオ・イサラは財政問題にも対処できなかった。軍隊はその保全に多額の費用を要するものであるが、スパーヌウォンはその調達を怠った。ほんのわずかな期間に、ラーオ・イサラ政府の予算は底をついた。
1946年初頭、財政支出とインフレを収めようと、カターイ・ドン・サソリット (英語版 ) は、新紙幣を発行したが、その紙質の粗末さと低い信用力から「カターイの乾いたバナナの葉」とあだ名された[ 4] 。
財政破綻したラーオ・イサラ政府は再攻勢に出たフランス軍に抗する術はなかった。1946年3月中国共産党軍撤退後、フランス軍は本格的攻撃をはじめ、同月のターケークの戦い でスパーヌウォンが瀕死の重傷を負うなど大敗戦を期し、そのままフランス軍は1946年4月末ビエンチャン を占領、5月にはルアンパバーン に至り、ラーオ・イサラ政権の指導者はタイに亡命することとなった。
組織の分裂
再占領を完了したフランスは、ラオス統治の再構成に取り組み、1946年8月27日 、親仏派のシーサワーンウォンを国王とするラオス王国 を建国、代議制を整備した上で憲法を制定し立憲君主国としてフランス連合 に組み込んだ。
フランスは民族主義者達との懐柔にも努めた。バンコクのラーオ・イサラのメンバーには恩赦の可能性が示唆され、徐々に、フランスに協力するかどうかという問題でラオ・イサラ内での意見の分裂が生じた。スパーヌウォンはビエンチャン新政府を拒否し、ベトミンと同盟しフランスに対抗する準備を進めており、このことから多くのメンバーが離反した。その他、スパーヌウォンの軍用費の濫費等が明らかになり、カターイとの個人的対立も激化した。
1949年 10月24日 、運動の協力が失われたことを理由に、ラーオ・イサラは公式に解散を宣言した[ 5] 。スパーヌウォンは、ラーオ・イサラ左派を構成していたカイソーン・ポムウィハーン (インドシナ共産党 )らとともに、1950年8月にネオ・ラーオ・イサラを組織、これが、後にパテート・ラーオ となる。
1953年 10月22日 フランス・ラオス友好条約 が締結され、ラオス王国の軍事力を除く完全独立が認められたが、旧ラーオ・イサラのメンバーは主要な地位に含まれていなかった。[ 6]
影響
タイの国旗 に似たラーオ・イサラ政府の旗は、パテート・ラーオ に引き継がれ、1975年12月2日正式にラオス人民民主共和国 の国旗 に制定された。
脚注
^ visit-laos.com Archived 2008年7月5日, at the Wayback Machine .
^ Laos - Politics, Economics and Society by Martin Stuart-Fox
^ Laos and Laotians by Meg Regina Rakow
^ A Short History of Laos - The Land in Between by Grant Evans
^ Laos - Keystone of Indochina by Arthur J. Donmen
^ Uppsala Conflict Data Program (November 02, 2011). “Laos ”. Uppsala University Department of Peace and Conflict Research. 11/11/02 閲覧。 “In October 1953, the Franco-Lao Treaty of Amity and Association transferred power....”